01-3.「離職防止」こそ最大の採用戦略:今いる社員が辞めない・活躍し続けるための環境づくり

前章では、厳しい採用市場を勝ち抜くための「採用戦略」について具体的な手法を解説しました。しかし、どんなに優れた戦略で優秀な人材を採用できたとしても、その社員がすぐに辞めてしまっては、これまでの努力が水泡に帰してしまいます。採用コストや育成コストが無駄になるだけでなく、残された社員のモチベーション低下や、さらなる離職を招く負のスパイラルに陥りかねません。

まさに、**「離職防止」は「最大の採用戦略」**と言えるでしょう。穴の空いたバケツにいくら水を注いでも溜まらないように、まずは人材の流出を食い止めることが、企業の持続的な成長にとって不可欠なのです。

本章では、中小企業の経営者、人事担当者、そして社員の心身の健康を支える産業医や保健師の皆様と共に、**「今いる社員が辞めずに、いきいきと活躍し続けてくれる環境」**をどうすれば作れるのか、その具体的な方策を探っていきます。

「うちの会社は大丈夫だろうか…」と不安に思う方も、「何から手をつければ良いのかわからない」という方も、ぜひ読み進めてください。社員エンゲージメントの向上、働きがいのある職場づくり、そして健康経営の実践まで、明日から取り組めるヒントがきっと見つかるはずです。

3-1. なぜ社員は辞めてしまうのか?離職の真の理由を探る(アンケート、面談の活用)

離職防止の第一歩は、「なぜ社員は辞めてしまうのか?」その真の理由を正確に把握することです。退職時に語られる理由は、必ずしも本音とは限りません。「一身上の都合」という言葉の裏には、様々な不満や課題が隠されていることが多いのです。

  • 退職面談の重要性と効果的な実施方法: 退職が決まった社員に対して行う「退職面談(イグジットインタビュー)」は、離職理由のホンネを引き出す貴重な機会です。
    • 目的の明確化: 単なる形式的な手続きではなく、「組織改善のための情報を得る」という目的を明確に持ちましょう。
    • 実施者: 直属の上司ではなく、人事担当者や経営層など、比較的話しやすい立場の人が行うのが効果的です。外部の専門家に依頼するケースもあります。
    • 雰囲気づくり: 非難したり引き止めたりするのではなく、これまでの貢献に感謝し、安心して本音を話せる雰囲気を作ることが重要です。「今後の会社のために、ぜひ率直な意見を聞かせてほしい」というスタンスで臨みましょう。
    • 質問項目: 仕事内容、労働時間、人間関係、評価・処遇、キャリアパス、企業文化など、多角的な質問を用意し、深掘りしていきます。「最も不満だった点は何か?」「改善を期待することは何か?」といった具体的な質問も有効です。
    • 記録と分析: 面談内容は記録し、個人が特定できない形で集約・分析し、組織的な課題の特定に繋げます。
  • 匿名アンケート(パルスサーベイなど)の活用: 在職中の社員が安心して意見を表明できるよう、匿名性を担保したアンケートも有効です。特に、短期間で頻繁に行う「パルスサーベイ」は、従業員のコンディションや満足度の変化をリアルタイムに把握し、早期に問題の兆候を捉えるのに役立ちます。WorkdayなどのHRテクノロジーは、こうしたパルスサーベイの実施や分析をサポートする機能を提供しています。
  • よくある離職理由の整理と「自社の傾向」の把握: 一般的な離職理由としては、以下のようなものが挙げられます。
    • 人間関係の悪化: 上司との相性、同僚とのコミュニケーション不全、ハラスメントなど。
    • 労働条件への不満: 長時間労働、休日出勤、給与の低さ、福利厚生の不備など。
    • 仕事内容とのミスマッチ・やりがいの喪失: 仕事がつまらない、成長を感じられない、貢献実感が持てないなど。
    • キャリアアップ・成長機会の不足: 将来のキャリアパスが見えない、スキルアップの機会がないなど。
    • 評価・処遇への不満: 評価基準が不明確、正当に評価されていないと感じる、昇進・昇給が期待できないなど。
    • 企業文化・経営方針とのミスマッチ: 会社の価値観に共感できない、経営方針に不安を感じるなど。
    • 健康上の理由: 心身の不調、過度なストレスなど。

これらの一般的な理由を参考にしつつ、自社で退職面談やアンケートから得られた情報を分析し、「自社特有の離職理由の傾向」を掴むことが重要です。例えば、「特定の上司の下で離職が多発している」「入社3年以内の若手の離職率が高い」といった具体的なパターンが見えてくれば、対策もより的確になります。

社員が辞める前に発する**「離職のサイン」**(遅刻・欠勤が増える、仕事のミスが増える、周囲とのコミュニケーションが減る、不満や愚痴が多くなるなど)に早期に気づき、個別に対応することも大切です。日頃からのコミュニケーションや1on1ミーティングが、そうしたサインをキャッチする上で役立ちます。

3-2. 従業員エンゲージメントを高める:働きがいと帰属意識を醸成する具体策

離職の根本原因を探ると同時に、社員が「この会社で働き続けたい」と思えるような、魅力的な組織づくりを進めることが不可欠です。その鍵となるのが**「従業員エンゲージメント」**の向上です。

従業員エンゲージメントとは、単に「会社に満足している」という状態を超えて、**「企業理念や戦略に共感し、自発的に組織に貢献しようとする意欲」や、「企業と従業員が互いに成長し合える関係性」**を指します。エンゲージメントが高い社員は、生産性が高く、創造性に富み、離職しにくい傾向があることが多くの調査で示されています。

では、どうすれば従業員エンゲージメントを高めることができるのでしょうか?

3-2-1. 心理的安全性の確保とオープンなコミュニケーションの促進

社員が自分の意見やアイデアを安心して発言でき、失敗を恐れずに挑戦できる環境、すなわち**「心理的安全性」**の高い職場は、エンゲージメント向上の土台となります。

  • Google「プロジェクト・アリストテレス」の教訓: Google社が行った有名な研究「プロジェクト・アリストテレス」では、生産性の高いチームに共通する最も重要な因子が「心理的安全性」であることが明らかになりました。メンバーが互いに尊重し合い、安心して本音を言い合えるチームは、より高い成果を上げるのです。
  • 具体的な施策:
    • 1on1ミーティングの定期的な実施: 上司と部下が1対1で対話する機会を設け、業務の進捗だけでなく、キャリアの悩みやプライベートな課題についても気軽に相談できる関係性を築きます。大切なのは「傾聴」の姿勢です。
    • 意見を言いやすい会議運営: 発言者を固定せず、全員が意見を出しやすいようにファシリテーションを工夫する。アイデアを歓迎し、建設的な議論を促す。
    • 感謝や称賛を伝え合う文化づくり: 社員同士が良い仕事をした際に、気軽に「ありがとう」「素晴らしいね」と声をかけ合う文化を醸成します。サンクスカード制度や社内表彰制度なども有効です。
    • 風通しの良いコミュニケーションチャネルの確保: 社内SNS、目安箱、部門横断的な懇親会など、立場や部署を超えてコミュニケーションが取れる機会を設けます。経営層からの情報発信も透明性を高める上で重要です。

3-2-2. キャリアパスの提示と成長機会の提供:学び続ける文化の醸成

社員が「この会社で働き続ければ、自分は成長できる」「将来のキャリアを描ける」と感じられることは、エンゲージメントを維持する上で非常に重要です。

  • 中小企業におけるキャリアパス設計の工夫: 大企業のようにポストが豊富でない中小企業では、単線的な昇進・昇格だけでなく、専門性を深める「専門職制度」や、複数の分野で活躍できる「複線型キャリアパス」などを検討することも有効です。社員一人ひとりの志向や適性に合わせたキャリア支援を意識しましょう。
  • 研修制度の充実と自己啓発支援:
    • OJT(On-the-Job Training)の体系化: 新入社員や異動者に対して、計画的かつ継続的なOJTを実施し、早期の戦力化と定着を支援します。
    • Off-JT(社外研修)機会の提供: 外部のセミナーや研修への参加を奨励し、費用を補助します。
    • 資格取得支援制度: 業務に関連する資格取得を奨励し、受験料や報奨金などを支給します。
    • eラーニングの導入: 時間や場所を選ばずに学習できるeラーニングは、多様な学習ニーズに対応できます。SAP SuccessFactors Learningのような学習管理システム(LMS)は、研修の計画・実施・効果測定を一元管理でき、中小企業でも導入が進んでいます。
  • メンター制度の導入: 先輩社員が新入社員や若手社員の相談役となり、業務上のアドバイスだけでなく、精神的なサポートも行うメンター制度は、早期離職の防止やキャリア形成支援に効果的です。
  • 社内公募制度やジョブローテーション: 社員が自ら希望する部署や職務に挑戦できる社内公募制度や、計画的なジョブローテーションは、新たなスキル習得やキャリアの幅を広げる機会を提供し、マンネリ化を防ぎます。

社員が自律的に学び、成長し続けられる「学習する組織」の文化を醸成することが、企業の持続的な競争力にも繋がります。

3-2-3. 適材適所の人員配置と公正な評価制度の構築

社員が自分の能力や適性を最大限に活かせる仕事に就いていると感じられること、そして、その努力や成果が正当に評価されることは、働きがいとエンゲージメントに直結します。

  • 個人の強みを活かす配置: 定期的な面談やアセスメントツールなどを通じて、社員一人ひとりの強み、スキル、価値観、キャリア志向を把握し、可能な範囲でそれらが活かせる部署や業務への配置を検討します。
  • 評価基準の透明性と公平性の確保:
    • 明確な評価基準の設定と公開: 何をすれば評価されるのか、どのような行動が期待されているのかを、全社員に明確に伝え、共有します。
    • 評価プロセスの透明化: 誰が、いつ、どのように評価を行うのか、そのプロセスを明らかにします。
    • 評価者トレーニングの実施: 評価者が公平かつ客観的に評価できるよう、トレーニングを行います。評価のばらつきや評価エラーを防ぐことが重要です。
  • 育成視点でのフィードバック: 評価結果を伝える際には、単に評定を伝えるだけでなく、具体的な行動や成果に基づいて良かった点、改善すべき点をフィードバックし、今後の成長に繋げる「育成的な視点」を持つことが重要です。
  • 多様な評価手法の検討: 上司による評価だけでなく、同僚や部下など複数の視点から評価を行う「360度評価(多面評価)」は、より客観的で納得感の高い評価に繋がる可能性があります。ただし、導入には慎重な検討と準備が必要です。 WorkdayなどのHRプラットフォームは、目標設定から評価、フィードバックまでを一元的に管理し、透明性の高いパフォーマンスマネジメントを支援します。

社員が「この会社は自分のことを見てくれている」「頑張れば報われる」と感じられるような、信頼感のある人事制度を構築することが、エンゲージメント向上と離職防止の鍵となります。

3-3. 「働き方改革」を本気で推進:多様な人材が活躍できる柔軟な働き方の導入

政府主導で進められている「働き方改革」は、単に残業時間を減らすことだけが目的ではありません。多様な人材が、それぞれのライフステージや価値観に合わせて、いきいきと働き続けられる環境を整備し、企業全体の生産性を向上させることを目指すものです。これは、人材確保が困難な中小企業にとってこそ、積極的に取り組むべき課題です。

厚生労働省の「働き方改革特設サイト」などでは、具体的な取り組み事例や支援策が紹介されています。

3-3-1. テレワーク、フレックスタイム制導入のメリットと注意点

時間や場所にとらわれない柔軟な働き方は、従業員の満足度向上や生産性向上、さらには採用競争力の強化にも繋がります。

  • テレワーク(在宅勤務など):
    • メリット: 通勤時間の削減、育児や介護との両立支援、オフィスコストの削減、災害時の事業継続性(BCP)向上など。
    • 注意点・課題: コミュニケーション不足、労務管理の難しさ(労働時間の把握)、情報セキュリティの確保、評価の難しさ、社員間の不公平感など。
    • 導入のポイント: 対象者や業務範囲の明確化、勤怠管理システムの導入、コミュニケーションツールの活用(チャット、Web会議システムなど)、セキュリティ対策の徹底、定期的な出社日の設定などが挙げられます。
  • フレックスタイム制: 始業・終業時刻を従業員が自主的に決定できる制度です。
    • メリット: 従業員の自主性の尊重、ワークライフバランスの向上、通勤ラッシュの回避、生産性の向上(集中できる時間に働ける)など。
    • 注意点・課題: コアタイム(必ず勤務すべき時間帯)の設定、部門間の連携への影響、自己管理能力の要求など。

これらの制度を導入する際には、まず一部の部署で試行的に導入し、課題を洗い出しながら全社展開していくなど、慎重に進めることが重要です。サイボウズ株式会社のように、多様な働き方を積極的に導入し、成功している企業の事例も参考になります。

3-3-2. 残業時間削減と生産性向上の両立:業務効率化のアイデア

長時間労働は、従業員の心身の健康を損ない、生産性を低下させ、離職の原因ともなります。残業時間を削減しつつ、生産性を向上させるための具体的な取り組みが求められます。

  • 業務の棚卸しと「ムリ・ムダ・ムラ」の排除: 全ての業務をリストアップし、その目的、頻度、必要性、担当者などを明確にします。その上で、「本当に必要な業務か?」「もっと効率的にできないか?」「自動化できないか?」といった視点で見直し、不要な業務の廃止やプロセスの改善を行います。
  • 会議の効率化: 会議の目的を明確にする、参加者を絞る、事前に資料を共有する、時間を厳守する、議事録を速やかに共有するなど、会議の生産性を高める工夫を徹底します。
  • ITツールの活用による自動化・効率化:
    • RPA(Robotic Process Automation): 定型的な事務作業を自動化する。
    • ビジネスチャットツール: メールよりも迅速なコミュニケーションを実現する。
    • プロジェクト管理ツール: 進捗状況の可視化と情報共有を円滑にする。
    • クラウドストレージ: 資料の共有や共同編集を容易にする。
  • 「ノー残業デー」の設定や「朝型勤務」の推奨: 全社的に残業をしない日を設けたり、朝早く出社して集中して仕事をし、早く退社することを推奨したりするのも有効な取り組みです。

これらの取り組みは、トップの強いコミットメントと、社員一人ひとりの意識改革があって初めて効果を発揮します。

3-4. 産業医・保健師と連携した健康経営の実践:社員の心身の健康が企業を強くする

従業員の健康は、企業の持続的な成長を支える重要な経営資源です。**「健康経営」**とは、従業員の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することを指します。経済産業省では「健康経営優良法人認定制度」を設け、積極的に健康経営に取り組む企業を顕彰しています。

この健康経営を推進する上で、産業医や保健師といった専門職との連携は不可欠です。ペルソナとして設定されている産業医・保健師の皆様には、専門的な知見を活かし、経営層への提言や具体的な施策の企画・実行において中心的な役割を担っていただくことが期待されます。

3-4-1. メンタルヘルス対策の重要性と具体的な取り組み

現代社会において、働く人のメンタルヘルス不調は大きな問題となっています。早期発見・早期対応、そして未然防止のための取り組みが重要です。

  • ストレスチェック制度の適切な運用と結果活用: 法律で義務付けられているストレスチェックを形式的に行うだけでなく、集団分析結果を職場環境の改善に活かすことが重要です。産業医・保健師は、その分析と改善策の提案において中心的な役割を担います。
  • 相談しやすい環境づくり:
    • 社内相談窓口の設置: 人事担当者や保健師などが相談に応じる窓口を設けます。プライバシーが守られる環境を整備することが不可欠です。
    • EAP(Employee Assistance Program:従業員支援プログラム)の導入: 外部の専門機関と契約し、社員が匿名でカウンセリングなどを受けられるようにする制度です。
  • 管理職へのラインケア研修: 部下のメンタルヘルス不調に早期に気づき、適切な対応ができるよう、管理職向けの研修(ラインケア研修)を実施します。部下からの相談への対応方法や、産業医・保健師との連携方法などを学びます。

3-4-2. 健康増進施策と働きやすい職場環境の整備

身体的な健康増進と、心身ともに快適に働ける職場環境づくりも健康経営の重要な柱です。

  • 健康診断の受診勧奨と事後措置の徹底: 健康診断の受診率100%を目指すとともに、有所見者に対しては産業医・保健師が面談を行い、適切な受診勧奨や生活習慣改善指導を行います。
  • 食生活改善支援: 社員食堂でのヘルシーメニューの提供、食事補助、栄養指導セミナーの開催など。
  • 運動機会の提供: スポーツジムの利用補助、社内でのストレッチ教室やウォーキングイベントの開催、階段利用の奨励など。
  • 禁煙支援: 禁煙セミナーの開催、禁煙補助薬の費用補助など。
  • 物理的な職場環境の改善: 適切な照度・温度・湿度の維持、休憩スペースの充実、分煙対策の徹底、オフィス緑化など。

これらの施策は、単発で行うのではなく、年間計画を立てて継続的に取り組むことが重要です。また、社員のニーズや意見を反映させながら、より効果的な施策へと改善していく姿勢が求められます。


「離職防止」と「エンゲージメント向上」は、一朝一夕に達成できるものではありません。しかし、本章でご紹介したような取り組みを一つひとつ着実に積み重ねていくことで、社員が「この会社で働き続けたい」「この会社と共に成長したい」と思えるような、魅力的な組織へと変わっていくはずです。

そのためには、何よりも経営トップの強いコミットメントと、全社員が当事者意識を持って取り組む姿勢が不可欠です。

さて、採用した人材が定着し、いきいきと活躍する組織の土台ができてきました。次の章では、これらの取り組みをさらに発展させ、企業の持続的な成長と価値向上に繋げるための**「人的資本経営」**という、より大きな視点について掘り下げていきます。ご期待ください。