04-6. 物価高下での「採用」・「定着」・「人件費」戦略

これまでのセクションで、私たちは物価高原材料高という逆境において、従業員の健康を守る「健康経営」が土台となり、働き方改革生成AI活用が業務効率とコスト最適化のテコとなることを確認しました。これらは、人的資本経営の重要な柱であり、中小企業が逆境を乗り越えるための戦略的投資です。

しかし、どんなに健康で効率的に働ける環境を整えても、企業経営において避けて通れないのが「人件費」という直接的なコスト、そして優秀な「人」をいかに組織に迎え入れ(採用)、そして長く活躍してもらうか(定着)という、人事の根幹に関わる課題です。特に物価高下では、これらの課題がかつてないほど重くのしかかります。潤沢な資金で高待遇を提示することが難しい中小企業は、この難局にどのように立ち向かうべきでしょうか。

このセクションでは、物価高時代における中小企業採用定着人件費に関する実践的な人事戦略に焦点を当てます。

5-1. 物価高と賃上げ圧力:人件費への向き合い方

物価高は、従業員一人ひとりの家計に直接的な影響を与えています。食料品、光熱費、ガソリン代など、あらゆる生活必需品の値上がりが続く中で、「今の給与では生活が苦しい」「せめて物価高分だけでも補填してほしい」という声が従業員から上がるのは当然のことです。実際に、毎年の賃金交渉の場や、各種の労働経済調査においても、賃上げ圧力が高まっている状況は明らかです。これは、中小企業人件費に対するプレッシャーとして、経営者の皆様が肌で感じていらっしゃることでしょう。

一方で、中小企業は、原材料高やエネルギーコストの上昇分を販売価格に十分に転嫁できていない、あるいは価格転嫁が遅れる傾向にあるという厳しい現実に直面しています。このような状況で人件費を大幅に増加させることは、企業の利益率をさらに悪化させ、経営そのものを危うくしかねません。この板挟みの状況が、中小企業社長人事担当者の皆様にとって、最も頭を悩ませる課題の一つとなっているはずです。

この難局において、中小企業人件費とどのように向き合うべきでしょうか? 単純に「賃上げは難しい」と伝えるだけでは、従業員の不満、士気低下、そして離職といった人的資本の毀損を招き、セクション1で述べた「隠れたコスト」が雪だるま式に増えてしまうリスクがあります。

まず重要なのは、「人件費」を単なる「費用」として見るのではなく、未来への「投資」であり、「人的資本への正当な対価」として捉え直すことです。その上で、限られたリソースの中で、最大限の効果を発揮するための戦略を考えます。

  • 「総報酬」の視点を持つ: 従業員が会社から受け取る価値は、基本給だけではありません。賞与、各種手当(通勤手当、家族手当、住宅手当など)、退職金、さらには福利厚生(法定外健康診断補助、慶弔見舞金、社員旅行、健康経営施策、働き方改革に伴う柔軟な勤務制度、自己啓発支援なども含む)など、全ての要素を含めた「総報酬」で評価する視点が重要です。基本給の大幅な引き上げが難しくとも、例えば物価高に対応するための期間限定の特別手当の支給、あるいは従業員の生活を支援する手当の見直しなど、総報酬の他の要素で従業員の負担を少しでも軽減できないか検討します。これは、グローバルで広く採用されている「トータルリワード」という考え方にも通じるものです。
  • 生産性向上と連動させる: もし賃上げを実施するのであれば、それが企業の生産性向上とどのように結びつくのか、従業員にも明確に伝える努力をします。例えば、目標達成度に応じたインセンティブ制度や、部署・チームの業績連動賞与の導入などが考えられます。ただし、これらのインセンティブは、従業員が納得できる公正で透明性のある評価制度とセットで行う必要があります。
  • 丁寧かつ誠実なコミュニケーション: 会社の財務状況、なぜ現時点で大幅な賃上げが難しいのか、しかし一方で会社として従業員のために何ができると考えているのか(非金銭的支援や今後の賃上げに向けた取り組みなど)、正直かつ誠実に伝えることが極めて重要です。一方的な通知ではなく、従業員との対話を通じて、会社の状況への理解と、共にこの難局を乗り越えようという意識を醸成する努力が、従業員の信頼維持に繋がります。これは、従業員エンゲージメントを高める上で非常に重要です。
  • 柔軟な報酬形態や副業・兼業の検討: 定期昇給や賞与といった伝統的な報酬形態だけでなく、単年度の業績に応じた特別ボーナスや、従業員が自身のスキルを活かして副業・兼業を行うことを許可・支援することで、従業員の収入源を多様化し、物価高下での生活不安を軽減する支援策も考えられます。

人件費への向き合い方は、企業の財務状況だけでなく、従業員の信頼とモチベーション、ひいては定着率に深く関わる、極めて戦略的な課題です。単なるコスト管理ではなく、人的資本への投資効果を最大化するという視点が求められます。

5-2. 賃金以外の魅力向上!従業員エンゲージメントを高める人事施策

物価高下で給与水準だけで大企業や資金力のある競合他社と張り合うのは、多くの中小企業にとって困難です。しかし、人が働く場所を選ぶ理由は、決して賃金だけではありません。やりがい、成長機会、人間関係、働きやすさ、会社のビジョンへの共感など、多様な要素が絡み合います。そして、従業員エンゲージメントが高い企業は、離職率が低く、生産性が高いことが国内外の多くの調査で明らかになっています。物価高下で賃上げが難しい状況だからこそ、賃金以外の「働く魅力」を高めることが、優秀な人材の定着率向上に不可欠な人事戦略となります。

中小企業でも実践できる、賃金以外の魅力向上と従業員エンゲージメントを高めるための具体的な人事施策例です。これらは、特別な大規模投資なくとも、意識と工夫で始められるものが多いです。

  • 承認と感謝の文化醸成: 日々の業務における従業員の貢献や努力に対し、役職や部署に関わらず積極的に認め、感謝を伝える文化を組織全体で作ります。社長人事部長からの直接の声かけ、社内報やイントラネットでの称賛、ピアボーナス(従業員同士が少額の報酬やポイントを送り合う制度。ツールによっては安価に導入可能)の導入、サンクスカード制度などが考えられます。あるサービス業の中小企業では、毎月の社内報で「今月のグッドジョブ賞」として従業員の小さな貢献を具体的に紹介することで、お互いを承認し合う文化が根付き、従業員エンゲージメントが向上したという事例があります。
  • 成長機会の提供とキャリアパスの明示: 従業員は「この会社で成長できる」「将来のキャリアが見える」と感じることで、エンゲージメントが高まります。社内研修の充実(外部研修が難しければ、社内講師による勉強会、オンライン学習プラットフォームの活用)、資格取得支援制度、異動や新しいプロジェクトへの挑戦機会の提供、メンター制度、管理職やリーダーへの抜擢といった具体的なキャリアパスの提示などが考えられます。ある製造業の中小企業では、社員のスキルマップを作成し、足りないスキルを補うための社内勉強会を頻繁に開催することで、従業員の学びへの意欲を高め、業務の多能工化も進み、生産性向上に繋がっています。
  • 裁量と権限の委譲: 従業員に一定の裁量を与え、自分の仕事に対するオーナーシップを持たせることは、責任感とやりがいを生み、エンゲージメントを高めます。小さな決定権を委ねる、新しい業務プロセス改善の提案を受け付ける、プロジェクトリーダーを任せるなどが考えられます。
  • 透明性の高い情報共有と双方向コミュニケーション: 会社の経営状況(良いニュースも厳しい現実も)、経営層の考え、目標達成に向けた進捗などを定期的に全従業員に共有します。また、従業員からの意見、懸念、提案に真摯に耳を傾け、対話する場を設けます。オープンなコミュニケーションは、従業員の会社への信頼を高め、心理的安全性を醸成し、エンゲージメントの基盤となります。定期的な全社集会や、部署ごとの1on1ミーティング、従業員アンケートとそれに基づくフィードバックなどが有効です。
  • 柔軟な働き方の選択肢: (セクション4で詳述したように)リモートワーク、フレックスタイム、時短勤務、副業許可といった柔軟な働き方は、従業員のライフワークバランスを向上させ、特に物価高下での生活上の都合に合わせやすくなるため、従業員エンゲージメント定着に大きく寄与します。これは、コストをかけずに提供できる、強力な非金銭的魅力となり得ます。
  • 目的やビジョンの共有と共感: 物価高という困難な状況だからこそ、会社の社会における存在意義、成し遂げたいビジョン、日々の仕事がどのように社会や顧客に貢献しているのかを繰り返し共有し、従業員が自分の仕事に誇りと意義を感じられるようにします。共通の目的への共感は、困難な状況下でエンゲージメントを維持するための重要な要素です。

これらの施策は、必ずしも多額の予算を必要としません。重要なのは、「従業員一人ひとりを大切な人的資本として扱い、物価高下でもこの会社で働き続けたいと思える環境を作る」という経営の強い意志を明確にし、それを日々のコミュニケーションや制度に反映させていくことです。

5-3. 限られたリソースで成果を出す採用・育成戦略

物価高下での人件費制約は、新しい人材の採用や、既存従業員の「育成」にも影響します。しかし、企業の未来を創るためには、必要な人的資本への投資を止めるわけにはいきません。限られたリソースの中で、最大の効果を出すための、賢く効率的な採用育成戦略が求められます。

【採用戦略】

  1. 「賃金以外」の魅力を最大限にアピール: 大企業との賃上げ競争が難しい場合、中小企業ならではの独自の魅力(風通しの良さ、意思決定の速さ、仕事の裁量の大きさ、アットホームな雰囲気、地域への貢献、特定の技術力、ユニークな文化など)や、これまで議論してきた健康経営や柔軟な働き方といった取り組みを、求職者に響くメッセージで積極的に発信します。自社の「採用ブランド」を明確にし、自社の文化や価値観にフィットする人材に的を絞ってアプローチします。
  2. リファラル採用の推進: 既存の従業員からの紹介による採用は、コストが低く、入社後のミスマッチも少ない傾向があります。従業員に紹介を促すためのインセンティブ制度を設ける、自社の魅力を従業員自身が語れるようにするトレーニングを行う、紹介者と被紹介者への感謝を形にするなどの取り組みが有効です。
  3. オンラインツールやSNSの活用: 採用媒体への掲載だけに頼らず、自社のウェブサイト、ブログ、各種SNS(Facebook, X, Instagramなど)を活用して、企業の雰囲気、働き方、従業員のインタビュー、社内イベントの様子などを積極的に発信します。コストを抑えつつ、自社の魅力や文化に興味を持つ潜在的な候補者にリーチできます。例えば、ある建築関連の中小企業では、Instagramで現場の活気や職人の技術を積極的に発信したところ、若手からの応募が増加しました。
  4. 選考プロセスの効率化と候補者体験の向上: 短時間で候補者の見極めができる面接手法の導入や、オンライン面接の活用により、採用にかかる時間とコストを削減します。また、選考中の連絡を迅速に行う、面接官の対応を丁寧にするなど、候補者にとってストレスの少ない、ポジティブな採用体験を提供することは、入社意欲を高める上で非常に重要ですし、辞退率の低下は採用コストの抑制に繋がります。
  5. インターンシップや副業・兼業人材からの登用: 正社員採用の前に、短期間のインターンシップや副業・兼業という形で関わってもらうことで、お互いのフィット感を見極め、採用ミスマッチのリスクを減らします。これは、コストを抑えつつ、将来の正社員候補を見つける有効な手段となり得ます。

【育成戦略】

  1. OJT(On-the-Job Training)の強化: 現場での実務を通じた教育は、コストを抑えつつ即戦力を育てる基本です。OJT担当者への指導方法に関する研修、指導計画の明確化、定期的なフィードバック制度の導入など、OJTの質を高める工夫が重要です。
  2. 社内講師による研修や勉強会: 社内の専門知識や豊富な経験を持つ従業員を講師として、他の従業員向けの研修や勉強会を実施します。外部講師を招くよりはるかに低コストで、実務に直結した生きた知識を共有できます。例えば、ベテラン社員による技術勉強会、経理担当者による基礎研修、産業医/保健師による健康セミナーなどが考えられます。
  3. eラーニングやオンライン学習の活用: 低コストで多様なコンテンツを学べるeラーニングプラットフォームや、公的機関(厚生労働省や経済産業省、各自治体など)が提供する無料または安価なオンライン講座を従業員に推奨・支援します。これにより、個々の従業員が必要なスキルを、自身のペースで学ぶことができます。
  4. 多能工化の推進: 一人の従業員が複数の業務をこなせるように育成することで、特定の従業員の欠勤リスクをカバーしたり、業務量の変動に柔軟に対応したり、部署間の連携を強化したりできます。これは、組織全体の生産性と効率を高めることに繋がります。計画的なジョブローテーションや、クロストレーニングの機会を設定します。
  5. 目的意識を持った育成計画: 企業の事業戦略や物価高下で特に求められる能力(例:コスト意識、新しいツール活用スキル、変化への適応力、問題解決能力)に基づいた育成計画を立てます。誰に、どのようなスキルを、いつまでに習得してもらう必要があるのかを明確にすることで、限られた育成投資の効果を最大化できます。例えば、生成AI活用の推進に必要なデジタルリテラシー向上のための研修を計画的に実施するなどです。

中小企業物価高下で人材を確保し、定着させるためには、賃上げ競争に直接参加するのではなく、賃金以外の「働く魅力」を戦略的に磨き、限られたリソースの中で最も効果的な採用育成戦略を実行することが求められます。これは、単にコストを抑えるだけでなく、従業員のエンゲージメントを高め、組織全体の生産性とレジリエンスを向上させるための、「人」への賢い投資です。

まとめ:人こそ宝、戦略的な投資を

物価高という厳しい経済状況は、中小企業採用定着人件費戦略に大きな課題を投げかけています。しかし、この困難を乗り越える鍵もまた「人」にあります。

賃金だけでは勝負できない環境だからこそ、健康経営や柔軟な働き方で土台を固め(セクション3, 4)、賃金以外の「働く魅力」(従業員エンゲージメント)を最大限に高め(セクション5-2)、限られた予算の中で最も効果的な採用育成戦略(セクション5-3)を実行することが、中小企業物価高下で人的資本の価値を最大化し、生き残り、さらには成長するための道筋となります。

これまでに見てきたように、物価高対策としての人事戦略は、様々な要素が複雑に絡み合い、相互に影響し合っています。次の最終セクションでは、これまでの議論を踏まえ、中小企業社長人事部門、そして産業医保健師の皆様が、これらの戦略を自社で実行に移すための具体的なステップと、成功のためのポイントについて解説します。明日からのアクションへ繋がる、より実践的なヒントをお届けします。