前回の記事では、物価高騰や人材獲得競争の激化といった外部環境を背景に、賃上げがもはや避けられない経営課題となっている現状をお伝えしました。その必要性は理解したものの、多くの中小企業の経営者や人事担当者の皆様は、同時にこう感じているのではないでしょうか。
「必要性はわかる。でも、うちには難しい…」 「大企業みたいに、簡単にはできないよ…」
この率直な「難しい」という感覚こそが、中小企業が賃上げという課題に立ち向かう際に最初に、そして最も重く立ちはだかる「壁」です。では、具体的にどのような「本音の課題」が、中小企業の皆様を悩ませているのでしょうか。今回は、特に多くの企業様から聞かれる、賃上げに関する3つの大きな壁に焦点を当てて深掘りしていきます。
この課題を明確にすることで、「難しい」という感覚を具体的な問題点に分解し、次のステップで解決策を考えるための土台を築きます。
2-1. 「どこから財源を出す?」収益体質と労働分配率の現実
賃上げと聞いて、まず多くの経営者が頭を抱えるのが「お金」の問題です。「社員に報いたい気持ちはある。でも、その原資をどこから出すんだ?」――これが、中小企業の皆様が直面する最初の、そして最も切実な壁です。
大企業に比べて、中小企業は一般的に事業規模が小さく、利益率も限られているケースが多くあります。原材料費やエネルギーコストの高騰は、そのまま利益を圧迫します。そのような状況で、人件費という固定費を増加させることへの強い懸念は、ごく自然なことです。
ここでよく話題になるのが「労働分配率」です。これは、企業が生み出した付加価値(売上から外部費用などを差し引いたもの)のうち、人件費が占める割合を示す指標です。労働分配率が高すぎるということは、利益を圧迫している状態を示唆します。単純に賃金だけを上げると、この労働分配率は上昇し、企業の存続を危うくする可能性すら出てきます。
「値上げをしてその分を賃上げに回せばいい」という意見を聞くこともありますが、中小企業の場合、価格競争に巻き込まれやすかったり、長年の取引関係があったりして、簡単に製品やサービス価格に転嫁できない現実があります。また、賃上げのためのコスト増を吸収できるほど、収益構造自体が強くないという根本的な課題を抱えている企業も少なくありません。
賃上げの財源を継続的に確保するためには、単にコストを削るだけでなく、企業の収益体質そのものを強化するか、あるいは生み出す付加価値を向上させる必要があります。しかし、「それができれば苦労しない…」というのが、多くの経営者の皆様の偽らざる本音でしょう。この財源確保の難しさこそが、賃上げへの第一の、そして最大のハードルとなっているのです。
2-2. 既存の給与体系は通用するか? 人事評価制度の見直し
たとえ賃上げの原資を確保できたとしても、次に立ちはだかるのが「どう、そして誰に分配するのか?」という問題です。特に、長年同じ給与体系や人事評価制度を運用してきた中小企業ほど、この壁は高くなります。
多くの中小企業では、勤続年数や年齢を重視する年功的な給与体系がいまだに残っています。また、人事評価制度があっても、「評価基準が曖昧」「運用が形骸化している」「評価結果が賃金に反映されていない」といった課題を抱えているケースが少なくありません。
このような既存のシステムで賃上げを実施しようとすると、いくつかの問題が生じます。
まず、成果や貢献度と関係なく一律で上げると、頑張っている社員のモチベーションが上がりにくく、逆に「棚からぼたもち」と感じる社員が出てくるかもしれません。これは、賃上げを生産性向上や企業成長に繋げるせっかくの機会を失うことになります。
次に、特定の社員だけを優遇しようにも、評価基準が不明確なため、他の社員から不公平だと見なされ、かえって不満や不信感を生み出す可能性があります。特に、今の時代に合う専門スキルを持つ若手や中途社員を惹きつけるためのメリハリのある給与設定が難しくなります。
つまり、給与体系が硬直化していたり、人事評価制度が機能不全に陥っていたりすると、賃上げが組織の活性化に繋がらないどころか、逆効果になってしまうリスクすらあるのです。賃上げを戦略的に行うためには、そもそも「何を評価し、それに応じてどう報いるのか」という、給与体系や人事評価制度の根本的な見直しが不可欠となります。しかし、この制度改革は、時間も労力もかかり、社員の理解を得るのも難しい、頭の痛い問題です。
2-3. 社員の納得感をどう醸成するか? コミュニケーションの難しさ
賃上げというデリケートなテーマにおいて、金額と同じくらい、いやそれ以上に重要になるのが「社員の納得感」です。そして、この「納得感」を醸成するためのコミュニケーションが、中小企業にとって意外と大きな壁となります。
賃上げを発表する際、「〇〇円アップします」と伝えるだけでは、社員は「なぜこの金額なのか?」「自分の頑張りはどう評価されたのか?」といった疑問を持ちます。特に、給与体系や評価制度が不明確なまま賃上げが行われると、社員は「会社は公平に評価してくれない」「結局、よく分からない基準で給与が決まるのか」といった不信感を抱きかねません。
また、会社の経営状況をどこまで開示し、賃上げの背景や会社の目指す方向性をどう説明するかも難しい問題です。厳しい状況を話しすぎれば不安を煽るかもしれませんし、かといって何も説明しなければ、社員は会社への関心を失ってしまうかもしれません。
中小企業は距離が近い分、こうした「お金」に関する話は、かえって話しにくい雰囲気があるかもしれません。しかし、ここでのコミュニケーションを怠ると、せっかくの賃上げが社員のエンゲージメント向上に繋がらないどころか、「他の会社はもっと上げたらしい」「うちの評価制度はおかしい」といった不満の温床となってしまうリスクがあります。
賃上げを単なる「手当」ではなく、社員のモチベーションやエンゲージメントを高め、会社の成長に貢献しようという意欲を引き出す「投資」とするためには、経営層や管理職が、賃上げの意図、評価の基準、会社の現状と未来について、社員一人ひとりと丁寧に対話し、納得感と信頼関係を築いていく努力が不可欠です。これは、金額以上に、時間とスキルを要する難しい課題です。
このように、賃上げというテーマには、財源、制度、コミュニケーションといった、中小企業だからこそ乗り越えるべき具体的な「壁」が存在します。「うちには無理かもしれない…」と感じるのも、無理はありません。しかし、これらの壁は、決して乗り越えられないものではありません。
重要なのは、課題から目を背けるのではなく、その本質を理解し、中小企業ならではの強みを活かした解決策を見つけることです。
次のセクションでは、これらの「壁」を実際にどう乗り越えていくのか。賃上げを実現し、それを企業の成長に繋げるための具体的な手法や、給与体系・人事評価制度の見直しに向けた実践的なステップについて、さらに詳しく掘り下げていきます。御社が賃上げを成功させるための具体的なヒントが、きっと見つかるはずです。