前回の記事では、中小企業が賃上げに際して直面する「財源」「給与体系・評価制度」「コミュニケーション」という3つの大きな壁について掘り下げました。「やはり、うちには難しいのか…」と、少し気持ちが重くなった方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、ご安心ください。これらの壁は、多くの企業が悩み、そして工夫と戦略で乗り越えてきた課題です。そして、中小企業だからこそ可能な、機動的で従業員との距離が近いアプローチで、賃上げを単なるコスト増ではなく、企業の競争力強化や成長を加速させる「エンジン」に変えることができます。
このセクションでは、賃上げを成功させるための具体的な手法と、それを会社の成長に繋げるための実践的なステップをご紹介します。ここからが、御社の未来を変えるための「行動」のヒントになります。
3-1. ベースアップ? 定期昇給? 賞与? 賃上げ手法の種類と特徴
「賃上げ」と一口に言っても、その手法にはいくつか種類があります。それぞれにメリット・デメリットがあり、御社の経営状況や目指す目的に合わせて、最適なもの、あるいは複数を組み合わせて検討することが重要です。
主な賃上げの手法とその特徴を見てみましょう。
- ベースアップ(ベア):固定給の底上げ
- 特徴: 従業員全体の基本給を一律または一定割合で引き上げる方法です。
- メリット: 全従業員が対象となるため、物価高騰に対する生活支援として、また会社全体の士気を高めるメッセージとして分かりやすい効果があります。従業員の安心感や会社への貢献意欲を高める効果が期待できます。特に、現在の「実質賃金」低下への対応としては、最も直接的な手法と言えます。
- デメリット: 一度実施すると固定費として継続的に発生するため、企業の収益が不安定な場合や、生産性が伴わない場合は経営を圧迫するリスクがあります。個人の成果に関わらず一律であるため、頑張っている社員の評価が反映されにくい側面もあります。
- 中小企業での検討ポイント: 全体最適を目指すか、特定の層(若手、特定部門など)に絞るか。無理のない範囲で、持続可能性を慎重に検討する必要があります。
- 定期昇給(定昇):年齢や勤続年数、等級に応じた昇給
- 特徴: 企業のルールに基づき、勤続年数や年齢、あるいは職務等級の進捗に応じて毎年自動的に昇給させる方法です。
- メリット: 従業員にとって将来の見通しが立てやすく、長期勤続のモチベーションに繋がります。伝統的な日本企業の給与体系の根幹にあり、多くの従業員が慣れ親しんでいます。
- デメリット: 年功要素が強い場合、個人の成果や貢献が反映されにくくなります。優秀な若手や中途採用者の給与水準が上がりにくく、採用競争力が低下する可能性があります。給与カーブが硬直化し、人件費が年齢とともに自動的に上昇する構造になりがちです。
- 中小企業での検討ポイント: 人事評価制度と連動させ、「頑張り」が定昇に反映される仕組みに変革することで、年功要素と成果要素のバランスを取ることが可能です。
- 賞与・一時金:業績や個人の成果に応じた一時的な支給
- 特徴: 基本給とは別に、会社の業績や個人の成果に応じて支給される一時的な報酬です。決算賞与やインセンティブ賞与などがあります。
- メリット: 企業の収益と連動させやすいため、固定費増加のリスクを抑えられます。業績が好調な時には社員に大きく報いることができ、社員の会社業績への関心を高め、貢献意欲を刺激します。個人の成果を反映させやすい手法です。
- デメリット: 基本給が上がらないため、従業員によっては生活設計が立てにくいと感じる場合があります。業績が悪化した際には支給額が減る(あるいはゼロになる)可能性があり、従業員にとって不安定に感じられることがあります。
- 中小企業での検討ポイント: 月々の基本給アップが難しくても、業績連動の賞与で報いることで、社員の会社への貢献を促すことができます。明確な業績指標や個人目標との連動が重要です。
- 諸手当の見直し・新設:特定の条件や貢献に応じた支給
- 特徴: 家族手当、住宅手当といった生活関連の手当や、役職手当、資格手当、皆勤手当といった働く状況やスキルに応じた手当の見直しや新設を行う方法です。
- メリット: 特定の属性や頑張りを持つ社員に報いることができます。例えば、特定の資格取得者に手当を出すことで、社員のスキルアップを促すことができます。ベースアップより総額の柔軟性が高い場合があります。
- デメリット: 手当の種類が増えると給与体系が複雑になり、管理が煩雑になる可能性があります。基本給が低いまま手当で補う形になり、賃金構造が歪むこともあります。
- 中小企業での検討ポイント: 戦略的に活用することで、会社が必要とするスキルや行動を促進したり、特定の社員層(例:子育て世代)を支援したりすることができます。
これらの手法を、御社の「誰に、何を期待して、どのくらい報いるか」という目的に合わせて、単独で、あるいは組み合わせて検討することが、賃上げ戦略の第一歩となります。
3-2. 成果連動型賃金と生産性向上:賃上げを持続可能にするには
賃上げを単なるコスト増で終わらせず、企業の成長に繋げるためには、「賃上げ」と「成果」や「生産性向上」を連動させる視点が不可欠です。前回の記事で触れた「財源の壁」を乗り越えるためにも、これは非常に重要なアプローチとなります。
「成果連動型賃金」とは、従業員の給与や賞与の一部を、個人やチーム、あるいは会社の業績や達成した成果に連動させる仕組みです。これにより、「頑張って成果を出せば、その分自分に返ってくる」という意識が生まれ、従業員のモチベーションと生産性向上に繋がることが期待できます。
具体的な連動のさせ方には様々な形があります。
- 個人の目標達成に応じたインセンティブ賞与
- チームや部署の業績目標達成に応じた報奨金
- 会社全体の利益や売上向上に応じた決算賞与・利益配分
- コスト削減や業務効率化による成果の一部を還元するゲインシェアリング
例えば、ある製造業の中小企業では、製造ラインの改善提案制度を設け、その改善によって生まれたコスト削減額の一部を、提案者やそのチームに「生産性向上賞与」として分配する仕組みを導入しました。これにより、現場からの積極的な改善提案が増え、全体の生産性が向上。生まれた利益の一部を社員に還元することで、賃上げの原資と社員のモチベーション向上を両立させています。これは、まさに労働分配率をむやみに上げることなく、付加価値の向上を通じて社員に報いる好事例と言えるでしょう。
成果連動型賃金を導入する際は、「どのような成果・行動を評価し、賃金とどう連動させるか」を明確にし、社員に分かりやすく伝えることが成功の鍵となります。曖昧な基準では、かえって不公平感を生むからです。
そして、成果連動型の賃金制度を機能させるためにも、次に述べる「人事評価制度の見直し」は避けて通れません。
3-3. 人事評価制度の見直し:賃上げをパフォーマンス向上に繋げる
賃上げを単なる年功ではなく、個人の貢献や成長に報いる形で行うには、それを支える人事評価制度が不可欠です。前回の記事で、「既存の評価制度では賃上げをうまく活かせない」という壁に触れましたが、ここではその見直しに向けたステップを具体的に見ていきます。
人事評価制度の見直しは、賃上げを「人件費の増加」ではなく、「人的資本への投資」に変えるための最も重要なプロセスの一つです。
見直しのための具体的ステップ:
- 評価の目的を明確にする: なぜ評価制度を見直すのか?(例:賃上げの根拠とする、社員の成長を支援する、会社目標への貢献を促す)この目的によって、評価項目や運用方法が変わります。
- 評価基準を見直す: これまでの年功・勤続重視から脱却し、何を評価対象とするか?(例:個人の業績目標達成度、職務遂行能力、企業理念に基づいた行動、チームワーク、新しいスキル習得への姿勢など)会社のビジョンや戦略に沿った基準を設定します。業種や職種によって適切な基準は異なります(例:営業職なら売上目標だけでなく、顧客満足度も評価に入れるなど)。
- 評価プロセスを設計する: 誰が、いつ、どのように評価を行うのか? 自己評価、上司評価、360度評価など、評価手法を検討します。評価者間のばらつきをなくすための「評価者研修」や「評価調整会議」といったプロセスも重要です。評価結果を一方的に伝えるだけでなく、社員との面談を通じてフィードバックを行い、次の成長に繋げる仕組みを組み込みます。
- 評価結果と賃金・賞与の連動ルールを明確にする: 評価ランクが賃金や賞与にどのように反映されるのか、そのルールを明確に設定し、社員に公開します。透明性が納得感を生みます。例えば、「評価Sの社員は基本給が〇%アップ」「評価A以上の社員には特別賞与を支給」など、具体的なルールを定めます。
- 制度の運用と改善: 一度制度を導入したら終わりではありません。実際に運用してみて生じる課題(例:評価者の負担が大きい、基準が分かりにくい、評価結果への不満が多いなど)を洗い出し、継続的に改善を重ねていく姿勢が重要です。
人事評価制度の見直しは、時間も労力もかかりますし、社員からの反発もあるかもしれません。しかし、ここを避けていては、賃上げの効果を最大限に引き出すことは困難です。中小企業であればこそ、大規模なシステム導入が難しくても、まずは一部の部門で試験的に導入してみたり、評価項目を3つ程度に絞ってみたりと、スモールスタートで始めることも可能です。
例えば、ある地方の製造業の中小企業では、以前は曖昧だった評価項目を、「担当ラインでの不良品率改善」「新しい製造技術の習得」「チーム内の情報共有への貢献」という3つに絞り、四半期ごとに上司との面談で評価とフィードバックを行う制度に変更。その結果を一部の賞与に連動させたところ、社員が自部署の課題解決に積極的に取り組むようになり、生産性向上と賞与アップの良いサイクルが生まれたそうです。
この人事評価制度の見直しは、賃上げを単なるコストではなく、社員の成長と会社の業績向上を結びつける強力なツールとなります。
このセクションでは、賃上げの具体的な手法と、それを会社の成長に繋げるための評価・生産性向上との連携について見てきました。これらの実践的なステップは、決して容易ではありませんが、計画的に、そして社員とのコミュニケーションを大切に進めることで、中小企業でも十分に実現可能です。
しかし、賃上げの戦略は、金銭的な報酬や評価制度だけにとどまりません。従業員の「働きがい」や「会社への愛着」は、金額だけでは測れない、企業の持続的な成長に不可欠な要素です。
次のセクションでは、賃上げの効果をさらに高めるために、非金銭報酬や、健康経営、働き方改革といった視点をどのように組み合わせるかについて深掘りしていきます。