これまでのセクションで、賃上げが避けられない理由、中小企業が直面する財源や制度の壁、そして賃上げを成果や評価と連動させる具体的な手法について見てきました。しかし、現代の採用市場や従業員の価値観を考えると、「賃上げ=給与額アップ」だけでは、もはや十分ではありません。
特に中小企業が大手企業と人材獲得競争を繰り広げる上で、給与額だけで勝負するのは限界があります。そこで重要になるのが、「給与・賞与といった金銭的な報酬」だけでなく、それ以外のあらゆる提供価値を含めた**「総報酬(Total Rewards)」という考え方です。そして、この総報酬の中核をなすのが、目に見えない「非金銭報酬」であり、それが生み出す「働きがい」**なのです。
このセクションでは、賃上げの効果を最大限に高め、中小企業ならではの魅力を構築するための「非金銭報酬」と「働きがい」に焦点を当てます。
4-1. 賃上げだけではない! 非金銭報酬の重要性
「非金銭報酬」とは、文字通り、給与や賞与といった現金で支払われるもの以外の、会社が従業員に提供するすべての価値を指します。これには、福利厚生、働き方(時間や場所の柔軟性)、成長機会、企業文化、人間関係、仕事内容そのものの魅力などが含まれます。
なぜ、今この非金銭報酬が重要なのでしょうか?
それは、特に若い世代や、多様なライフスタイルを持つ従業員にとって、働く上での価値観が「給与額一辺倒」ではなくなっているからです。ワークライフバランス、自己成長、社会貢献、職場の人間関係といった要素が、会社選びや働きがいを感じる上で、給与と同じくらい、あるいはそれ以上に重視されるようになっています。
中小企業が非金銭報酬を戦略的に活用することは、大手企業との給与額の差を補う強力な手段となります。例えば、給与額では大手企業に及ばなくても、
- 柔軟な働き方(リモートワーク、フレックスタイムなど)を提供することで、通勤時間をなくしたい、育児や介護と両立したいといったニーズを持つ優秀な人材を惹きつけられる。
- 手厚い研修制度や資格取得支援を用意することで、「ここで成長したい」という向上心のある人材に選ばれる。
- 風通しの良い企業文化や、経営層との近い距離感を打ち出すことで、人間関係を重視する社員にとって魅力的な環境となる。
- 地域社会への貢献や独自の理念を大切にする姿勢を示すことで、「何のために働くか」を重視する社員の共感を得られる。
といった形で、給与以外の部分で差別化を図ることができるのです。
具体的な非金銭報酬の例としては、以下のようなものが中小企業でも導入可能です。
- 福利厚生の拡充: 住宅手当や家族手当の見直し、従業員向けの優待制度(提携施設の割引など)、ランチ補助、社内イベントの充実。最近では、従業員の学び直しを支援する手当や、副業・兼業を認める制度なども非金銭報酬の一部と捉えられます。
- 多様な働き方の支援: コアタイムなしのフレックスタイム制、週〇日リモートワーク、時短勤務、サテライトオフィスの活用、育児・介護休暇の柔軟な取得推奨、リフレッシュ休暇制度。
- 成長・キャリア支援: 業務に必要な研修費用の全額補助、推奨資格の受験費用・報奨金制度、社内公募制度、メンター制度、新しい業務へのチャレンジ機会の提供。
- 快適なオフィス環境: リフレッシュスペースの設置、スタンディングデスクの導入、フリードリンク、BGM、観葉植物など。
これらの非金銭報酬は、単体では大きなコストにならないものも多く、従業員のニーズを丁寧にヒアリングしながら、自社に合ったものから少しずつ導入していくことが可能です。重要なのは、「会社が社員の働く環境や成長、人生を大切に考えている」というメッセージを、具体的な形として示すことです。
4-2. 働きがいを高める健康経営・働き方改革の視点
非金銭報酬の中でも、特に現代の従業員が重視し、企業の魅力に直結するのが「心身の健康」と「働き方の柔軟性」です。これらは、「健康経営」と「働き方改革」という取り組みと深く結びついています。
「健康経営」とは、単に病気を予防するだけでなく、従業員が心身ともに健康で、活き活きと働くことができるような環境整備や施策を戦略的に行うことです。ストレスチェック後の産業医・保健師による丁寧なフォロー、長時間労働の削減、適切な休憩の推奨、健康診断結果に基づく健康相談、感染症予防対策の徹底はもちろん、最近では心理的安全性の高い、安心して意見を言える職場文化の醸成も健康経営の重要な要素とされています。
健康経営に投資することは、従業員のエンゲージメント(会社への貢献意欲や愛着)を高め、離職率の低下や生産性の向上に直結します。従業員は、「会社が自分の健康を気遣ってくれている」と感じることで、会社への信頼感が増し、「この会社のために頑張ろう」という気持ちになります。また、健康な従業員が増えれば、欠勤や不調によるパフォーマンス低下が減り、組織全体の活力が向上します。日本の「健康経営優良法人認定制度」も、企業の健康投資を促進し、その取り組みを「見える化」する制度として広まっており、採用活動でもアピールポイントになりつつあります。
「働き方改革」も同様に、賃上げの効果を高める上で不可欠な視点です。これは、単に残業を減らすことだけではなく、育児や介護と両立しながら働ける制度、副業・兼業を認めることで個人のスキルアップや収入増を支援すること、業務の効率化を推進して生まれた時間を自己啓発や休息に充てられるようにすることなど、**「働く一人ひとりが、自分の能力を最大限に発揮できるような、柔軟で多様な働き方を実現する」**ことを目指す取り組みです。
例えば、あるIT系中小企業では、コロナ禍を機にフルリモートワークとフレックスタイム制を導入。これにより、オフィス通勤が難しい地方在住の優秀な人材を採用できるようになり、また、社員は自身のライフスタイルに合わせて働く時間や場所を自由に選べるようになったことで、仕事への集中力と満足度が大きく向上しました。給与水準だけで見れば大手企業に及ばない部分があっても、この柔軟な働き方が強力な「非金銭報酬」となり、高いエンゲージメントと低い離職率を実現しています。
また、地方のある製造業では、工場勤務者のために休憩スペースを大幅に改善し、仮眠やリラックスできる環境を整備。さらに、有給休暇の取得促進を徹底し、全社員が計画的に休みを取れるようにしたことで、社員の疲労軽減とリフレッシュが進み、作業効率と安全性が向上しました。これも、働き方改革と健康経営が一体となった成功事例と言えるでしょう。
健康経営や働き方改革への投資は、短期的な費用としては見えやすいかもしれませんが、長期的に見れば、従業員の健康増進による医療費や休職コストの削減、生産性向上、そして優秀な人材の獲得・定着による採用コストの削減など、様々な形で企業にリターンをもたらします。これはまさに、人的資本経営の考え方に基づいた、未来への重要な投資なのです。
賃上げは、従業員への感謝を示し、生活を支援するための重要な一歩です。しかし、真に企業の競争力を高め、持続的な成長を実現するためには、金銭報酬だけでなく、非金銭報酬の充実、そして健康経営や働き方改革を通じて「働きがい」を高める視点が不可欠です。これらを組み合わせた「総報酬戦略」こそが、中小企業が大手企業に伍して人材を惹きつけ、定着させるための鍵となります。
次のセクションでは、これまでの議論を踏まえ、賃上げと非金銭報酬、働きがい向上への取り組みが、具体的にどのように企業の「採用力強化」と「定着率向上」に繋がるのかを深掘りし、成功のための具体的な戦略について解説します。