これまでのセッションでは、サイバー攻撃の現実、その深刻な影響、そして中小企業が取り組むべき基本的な対策から一歩進んだ考え方までを掘り下げてきました。技術的な対策や組織体制の構築が不可欠であることは言うまでもありません。
しかし、このセッションで特にお伝えしたいのは、「サイバーセキュリティ対策は、決してIT部門やリスク管理部門だけが担当するものではなく、人事部門の皆様の主要なミッションである、働き方改革、健康経営、そして人的資本経営といった重要な人事戦略と深く連携し、一体となって推進すべきテーマである」という点です。
「サイバーセキュリティが人事戦略とどう関係するの?」と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。実は、企業のセキュリティレベルは、働く「人」の意識と行動、そして彼らが安心して働ける環境に大きく依存しています。そして、これらはまさしく人事部門が日々向き合っているテーマそのものです。
6-1. セキュリティ対策が従業員の安心・信頼に繋がる理由
あなたの会社の従業員は、安心して働けているでしょうか?事業の将来に対する不安や、自分の仕事が社会に貢献できているかといったことに加え、「会社が自分の情報や働く環境をしっかり守ってくれているか」という点も、従業員の安心感や会社への信頼に大きく影響します。
強固なサイバーセキュリティ対策は、従業員が安心して働ける環境の揺るぎない基盤となります。
- 従業員自身の個人情報保護: 人事部門が管理する給与情報、人事評価、社会保険情報、さらには産業医や保健師が把握する健康情報など、従業員にとって最もセンシティブな個人情報が適切に管理され、外部に漏洩するリスクが低いことは、従業員からの会社への信頼を築く上で極めて重要です。これらの情報が守られているという安心感は、従業員が会社に安心して身を任せられるという信頼感に直結します。
- 事業継続による雇用の安定: サイバー攻撃による事業停止や信用の失墜が、最悪の場合、事業の継続そのものを脅かす可能性があることは、前回のセッションでお伝えしました。会社がしっかりとセキュリティ対策に取り組むことは、事業を継続し、従業員の雇用を守るという強いメッセージになります。これは、従業員の将来に対する不安を軽減し、安心して長く働き続けられるという信頼に繋がります。
- 顧客・取引先からの信頼が従業員の誇りに: 自社が顧客や取引先から信頼され、選ばれ続けることは、従業員にとって大きな誇りとなり、働くモチベーションに繋がります。セキュリティ対策の甘さが原因で取引先との関係が悪化したり、顧客からの信用を失ったりすることは、従業員の士気を著しく低下させます。逆に、セキュリティ対策にしっかりと取り組むことで、対外的な信用の維持・向上に貢献し、それが従業員のエンゲージメントを高めることにも繋がるのです。
- 会社からのメッセージとしてのセキュリティ投資: 会社がサイバーセキュリティ対策に積極的に投資することは、「私たちは従業員の皆さんと、皆さんに関わる大切な情報、そして皆さんが働くこの会社を守ることを真剣に考えています」という、従業員へのメッセージとして受け取られます。このような姿勢は、従業員が会社に対して抱く信頼感を醸成し、「人的資本」として大切にされているという実感に繋がります。WorkdayやSAP SuccessFactorsといった先進的なHRMシステムを提供する企業が、従業員データの安全な管理をサービスの根幹に置いているのも、従業員からの信頼を得る上でセキュリティがいかに重要であるかを物語っています。
セキュリティ対策は、単にシステムを守るだけでなく、働く「人」の安心と信頼を守るための、重要な人的資本への投資なのです。
6-2. ストレス軽減にも繋がる?サイバーインシデント発生時の従業員ケア
もし、あなたの会社でサイバーインシデントが発生してしまったら――。その時、最も大きな精神的負担を負うのは、現場で対応に追われる従業員かもしれません。
前回のセッションでも触れた通り、インシデント発生時、従業員は以下のような心理的影響に晒される可能性があります。
- 自身のミスが原因かもしれないという罪悪感
- 顧客や取引先に迷惑をかけたことへのストレス
- 会社の対応への不信感
- 復旧作業や対応に追われる疲労とストレス
- 将来への不安
これらのストレスは、従業員の心身の健康に悪影響を及ぼし、放置すればメンタルヘルス不調や、最悪の場合、離職に繋がることもあります。ここで、人事部門、そして産業医や保健師といった産業保健スタッフの役割が非常に重要になります。
人事・産業保健スタッフが果たすべきケアの役割:
- 迅速かつ正確な情報提供: インシデント発生状況、会社が講じている対策、今後の見通しなどについて、従業員に迅速かつ正確に情報を提供します。不確かな情報や憶測が飛び交う中で、会社からの公式な情報提供は、従業員の不安を軽減し、落ち着いて対応するための助けとなります。
- 相談窓口の設置とメンタルヘルスケア: インシデント対応によるストレスや、自身の過失に対する罪悪感を抱える従業員のために、相談窓口を設置します。必要に応じて、産業医や外部のカウンセラーなど、専門家への相談機会を提供します。産業医や保健師は、従業員の健康状態をきめ細かく把握し、適切なケアを行う上で重要な役割を担います。
- 「誰かのせい」にしない組織文化: インシデントの原因が従業員の「うっかり」や誤操作であったとしても、その個人を過度に責めるようなことは絶対にしてはなりません。組織として対策が不十分であった点も含めて検証し、「どうすれば再発を防げるか」という建設的な視点で改善に取り組みます。人事部門が中心となり、従業員が安心してミスを報告し、再発防止に協力できる風通しの良い組織文化を醸成することが重要です。米国のSHRMなども、危機管理時における従業員コミュニケーションと心理的サポートの重要性を強調しています。
- 業務負荷の調整: インシデント対応に追われる従業員の業務負荷を適切に調整し、休息を確保できるよう配慮します。過度な負担は、新たなミスを誘発するだけでなく、心身の健康を損なう原因となります。
このように、サイバーインシデント発生時における従業員への心身のケアは、事業の早期復旧を支えるだけでなく、従業員の健康を守り、会社への信頼を維持し、離職を防ぐ上で極めて重要な取り組みです。これは、「健康経営」の観点からも、積極的に取り組むべきテーマと言えるでしょう。平常時からのセキュリティ教育を通じて、従業員がインシデント発生時に適切な初動対応を取れるようにしておくことは、彼らのパニックを軽減し、ストレスを和らげることにも繋がります。
6-3. 働き方改革を支えるセキュアなIT環境の構築
近年推進されている「働き方改革」は、多様な人材が、時間や場所にとらわれずに柔軟に働ける環境を整備することを目指しています。テレワーク、フレックスタイム、モバイルワークなど、様々な働き方が広がる中で、それを実現するためのIT環境の整備は不可欠です。
しかし、自由な働き方を実現するためには、それを支える「安全で信頼性の高い」ITインフラとセキュリティ対策が前提となります。前々回のセッションでも解説した通り、テレワーク環境には特有のセキュリティリスクが存在します。
- テレワーク環境における情報漏洩・不正アクセスリスクへの対策: 自宅やカフェなど、オフィス以外の場所から会社の情報資産にアクセスする場合、オフィス内と同等のセキュリティレベルを確保する必要があります。VPN(仮想プライベートネットワーク)の利用徹底、セキュリティソフトの導入・更新、安全なパスワード管理、多要素認証の導入などが、セキュアなテレワーク環境を実現するための基本的な対策です。
- 会社が管理するデバイスの利用促進: セキュリティ対策が不十分な私用デバイスを業務に利用する「シャドーIT」は、情報漏洩のリスクを高めます。会社がセキュリティ対策を施したデバイスを従業員に貸与し、その利用を促進することが、安全な働き方を支える上で有効です。
- クラウドサービスの安全な利用: 働き方改革ではクラウドサービスの活用も進みますが、クラウドサービスの適切な設定や、利用する従業員へのセキュリティ教育が重要です。
人事部門は、働き方改革の推進において、IT部門と連携し、従業員が場所や時間を選ばずに安心して働けるセキュアなIT環境が整備されているかを確認し、必要なセキュリティ対策への投資を経営層に進言することも重要な役割です。また、整備された環境を従業員が正しく、安全に利用するためのルール作りや教育も人事部門が主導すべきです。
セキュアなIT環境が整備されることで、従業員は安心して柔軟な働き方を選択できるようになり、生産性の向上やワークライフバランスの実現に繋がり、「働き方改革」の目的達成に貢献します。厚生労働省などが示す働き方改革関連のガイドラインにおいても、情報通信技術を活用した柔軟な働き方を推進する上でのセキュリティ確保の重要性が示唆されています。
セキュリティ対策は、人事が描く未来の企業像に不可欠
このセッションでは、サイバーセキュリティ対策が、人的資本経営、働き方改革、健康経営という、人事部門が中心となって推進する重要な経営テーマと深く連携していることをお伝えしました。
従業員の安心と信頼を守り、インシデント発生時の心理的負担を軽減し、そして多様で柔軟な働き方をセキュアに実現すること。これらはすべて、企業が持続的に成長し、優秀な人材を惹きつけ、従業員が最大限の力を発揮できる未来の企業像を描く上で、不可欠な要素です。
サイバーセキュリティ対策は、もはやIT部門だけの「守り」の対策ではありません。それは、人事部門が中心となり、従業員とともに築き上げる、未来への「攻め」の投資であり、企業価値を高めるための重要な戦略なのです。
これまでのセッションで、サイバーリスクの現実、その影響、そして基本的な対策から一歩進んだ考え方、さらには人事戦略との連携について理解を深めていただきました。次の最終セッションでは、では「まず何から始めるか」、そして「未来の企業価値を守るために、今日からどのような一歩を踏み出すべきか」を具体的にまとめ、皆様の行動を後押しするメッセージをお届けします。