これまでの章で、厳しい採用市場を乗り越えるための「採用戦略」、そして採用した大切な社員が定着し活躍するための「離職防止策」について具体的な方策を見てきました。これらの取り組みは、企業にとって極めて重要です。しかし、それらを場当たり的な対応に終わらせず、より長期的かつ戦略的な視座で捉え直し、企業の持続的な成長へと繋げていく――その鍵となるのが、今、注目を集めている**「人的資本経営」**という考え方です。
「人的資本経営って、大企業の話でしょう?」「うちのような中小企業には、まだ早いのでは…」
もしかしたら、そう感じられる経営者や人事担当者の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、人的資本経営は、企業の規模に関わらず、これからの時代を生き抜く全ての企業にとって重要な経営のあり方を示しています。
本章では、この「人的資本経営」とは何か、そして中小企業がどのようにその視点を取り入れ、持続的な成長を実現する人材戦略を構築していけばよいのか、具体的なステップと共にご紹介します。人材を単なる「コスト」や「労働力」としてではなく、**価値創造の源泉である「資本」**として捉え、その価値を最大限に高めていく。そんな未来志向の経営へと、共に踏み出しましょう。
4-1. 中小企業における人的資本経営の第一歩:何から始めるべきか?
「人的資本経営」という言葉を聞くと、何やら難しそう、大掛かりな取り組みが必要そう、と感じてしまうかもしれません。しかし、その本質は、**「人を大切にし、人の成長を通じて企業も成長する」**という、経営の原点とも言える考え方です。中小企業においても、決してハードルが高いものではありません。では、具体的に何から始めれば良いのでしょうか。
- 経営トップの強いコミットメントとパーパス(存在意義)の明確化: 人的資本経営を推進する上で最も重要なのは、経営トップの強い意志とリーダーシップです。「人はコストではなく、最も重要な資本である」という認識を経営者自身が持ち、それを社内外に明確に発信することが全ての始まりです。 そして、自社が「何のために存在するのか(パーパス)」、「社会にどのような価値を提供したいのか」を改めて問い直し、そのパーパスの実現と人材戦略をしっかりと結びつけることが重要です。企業のパーパスが社員の共感を呼び、日々の業務における「意味」や「やりがい」に繋がったとき、人的資本の価値は大きく向上します。
- 現状把握と課題設定(難しく考えずに): 次に、自社の人材に関する現状を客観的に把握します。これまでの章で触れてきた「採用課題の分析(2-1参照)」や「離職理由の分析(3-1参照)」の結果を、人的資本経営の視点で見つめ直してみましょう。 例えば、
- 従業員の年齢構成、勤続年数、男女比は?
- 社員のスキルレベルや専門性は把握できているか?
- 従業員エンゲージメント調査の結果はどうだったか?(3-2参照)
- 離職率は高いのか低いのか?その主な理由は何か? これらの現状と、自社の経営戦略やパーパスを照らし合わせ、「理想の姿」と「現状」のギャップを明らかにします。それが、人的資本経営における「課題」となります。最初から完璧な分析を目指す必要はありません。まずは把握できる情報から整理してみましょう。
- 情報開示(できる範囲からのスモールスタート): 近年、大企業を中心に、人的資本に関する情報の開示が求められるようになってきました。これは、投資家などが企業の持続的な成長力を判断する上で、財務情報だけでなく、人材戦略や従業員の状況といった非財務情報も重視するようになったためです。 中小企業において、すぐに詳細な情報開示を行うのは難しいかもしれません。しかし、例えば採用サイトや会社のウェブサイト、会社案内などで、自社の人材育成方針、働きがい向上のための取り組み、ダイバーシティ推進の考え方などを積極的に発信することは、すぐにでも始められる「情報開示」の一歩です。これは、採用力の強化にも繋がりますし、社員の自社に対する誇りやエンゲージメントを高める効果も期待できます。
- 「ISO 30414」を参考にできる範囲で活用する: 人的資本に関する情報開示の国際的なガイドラインとして「ISO 30414」があります。このガイドラインでは、採用、離職、ダイバーシティ、リーダーシップ、スキルなど11の領域について具体的な測定指標が示されています。中小企業が全ての指標を網羅するのは困難ですが、自社の課題や戦略に合わせて、参考にできる指標を選んで目標設定や効果測定に活用してみるのも良いでしょう。例えば、「研修時間」「リーダーシップ開発の対象者数」「従業員満足度」など、取り組みやすい指標から始めてみるのがおすすめです。
経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」(人的資本経営の実現に向けた検討会報告書)でも、経営戦略と連動した人材戦略の重要性が繰り返し強調されています。まずはこのレポートに目を通し、自社に置き換えて考えてみることから始めてみてはいかがでしょうか。
4-2. 社員のスキル・経験の可視化と戦略的な人材育成計画
人材を「資本」と捉えるならば、その資本がどのような価値を持ち、どのように成長していくのかを把握し、戦略的に投資していく必要があります。その第一歩が、社員一人ひとりが持つスキルや経験を「見える化」し、それに基づいて効果的な人材育成計画を策定・実行することです。
- スキルマップの作成と活用:埋もれた才能を発掘する 「スキルマップ」とは、社員が持つスキル、資格、経験、知識などを一覧表にしたものです。これを作成することで、以下のようなメリットが期待できます。
- 適材適所の人員配置: 「この業務には、Aさんのこのスキルが活かせるな」「新規プロジェクトには、Bさんの経験が不可欠だ」といったように、客観的なデータに基づいて最適な人員配置を行うことができます。
- 育成ニーズの明確化: 会社全体として、また個人として、どのようなスキルが不足しており、今後どのようなスキルを強化していくべきかという育成ニーズが明確になります。
- 効果的なキャリアパス設計: 社員が自身のスキルを棚卸しし、将来どのようなスキルを身につければキャリアアップできるのかを具体的にイメージしやすくなります。
- 採用時のミスマッチ防止: 募集するポジションに必要なスキルを明確に定義することで、採用時のミスマッチを防ぐことができます。
- 戦略的人材育成計画の策定と実行:未来への投資 スキルマップなどによって現状のスキルレベルや育成ニーズが明らかになったら、次は経営戦略や事業目標の達成に必要な人材像(質・量)を明確にし、そのギャップを埋めるための具体的な人材育成計画を策定します。
- OJT、Off-JT、自己啓発支援の組み合わせ: 日常業務を通じた育成(OJT)、外部研修やセミナーへの参加(Off-JT)、資格取得支援や書籍購入補助といった自己啓発支援などをバランス良く組み合わせます。
- リスキリング・アップスキリングの推進: デジタル技術の急速な進展や事業構造の変化に伴い、社員がこれまでとは異なる新しいスキルを習得する**「リスキリング」や、既存のスキルをさらに高度化する「アップスキリング」**の重要性が高まっています。例えば、製造業の企業がDX(デジタルトランスフォーメーション)を推進するために、現場の社員にデータ分析スキルを習得させるといった取り組みがリスキリングにあたります。 米国の通信大手AT&Tは、事業構造の転換期に大規模なリスキリングプログラムを実施し、多くの従業員の再配置に成功した事例として知られています。国内でも、経済産業省が「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」などを通じて企業の取り組みを後押ししています。
- 階層別研修・選抜型研修の実施: 新入社員研修、中堅社員研修、管理職研修といった階層別の研修に加え、将来のリーダー候補を選抜して集中的に育成するプログラムなども有効です。
- 学び続ける文化の醸成: 研修機会を提供するだけでなく、社員が自ら学びたいことを見つけ、主体的に学習に取り組むことを奨励し、支援する企業文化を育むことが重要です。社内勉強会の開催支援、学習成果の発表機会の提供などが考えられます。
戦略的な人材育成は、まさに未来への投資です。社員の成長が企業の成長を牽引し、ひいては企業価値の向上に繋がるという好循環を生み出しましょう。
4-3. ダイバーシティ&インクルージョンの推進:多様な人材が活躍できる組織へ
人的資本経営において、**ダイバーシティ&インクルージョン(D&I:多様性と包摂性)**の推進は不可欠な要素です。ダイバーシティとは、性別、年齢、国籍、障がいの有無、性的指向、価値観など、個々人の持つ様々な違いを認識し受け入れること。そしてインクルージョンとは、それらの多様な個性が尊重され、組織の中で誰もが疎外感を感じることなく、能力を最大限に発揮できる状態を指します。
なぜ今、D&Iが重要なのでしょうか?
- イノベーションの創出: 多様な視点や価値観が交わることで、新しいアイデアや解決策が生まれやすくなります。
- 人材獲得競争力の強化: 多様な人材にとって魅力的な職場環境を提供することで、採用における競争力を高めることができます。
- 企業イメージ・ブランド価値の向上: 社会的な要請に応え、D&Iを推進する企業は、顧客や投資家からの評価も高まります。
- リスク管理の強化: 均質的な組織よりも、多様な視点を持つ組織の方が、変化への対応力やリスク察知能力が高いと言われています。
では、中小企業はどのようにD&Iを推進していけば良いのでしょうか。
- 女性活躍推進: 管理職への積極的な登用、男女間の賃金格差の是正、育児休業や時短勤務制度の利用しやすい環境づくり、男性の育児休業取得促進、復職支援プログラムの充実などが挙げられます。
- 高齢者人材の活用: 豊富な経験や知識を持つシニア層が活躍できる場を提供します。定年延長や再雇用制度の整備、健康管理への配慮、体力的な負担の少ない業務設計、若手社員への技術・ノウハウ伝承の役割などが考えられます。
- 外国人材の受け入れと活躍支援: 労働力不足が深刻化する中で、外国人材の活躍はますます重要になります。日本語教育やコミュニケーション支援、宗教や文化の違いへの配慮、生活面でのサポート体制の整備などが求められます。
- 障がい者雇用の推進と合理的配慮: 法定雇用率の達成はもちろんのこと、障がいのある方がその能力を発揮しやすいように、業務内容の調整、職場環境のバリアフリー化、コミュニケーションツールの工夫といった「合理的配慮」を行うことが重要です。
- LGBTQ+への理解と対応: 性的指向や性自認に関する差別の禁止、相談窓口の設置、福利厚生制度(結婚休暇や慶弔金など)の対象を同性パートナーにも拡大するといった対応が考えられます。
- インクルーシブな組織文化の醸成: 制度を整えるだけでなく、最も重要なのは、多様な背景を持つ社員一人ひとりが尊重され、安心して自分らしくいられる、心理的安全性の高い職場文化を育むことです。 そのためには、経営層からの強いメッセージ発信、全社員を対象としたD&I研修の実施(特にアンコンシャスバイアス=無意識の偏見への気づきを促す内容)、異文化理解を深めるイベントの開催などが有効です。
D&I先進企業として知られるセールスフォース(Salesforce)は、「平等(Equality)」を重要な企業価値の一つに掲げ、従業員の属性データを開示し、インクルージョン推進のための様々なプログラムを実施しています。中小企業においても、まずは自社で取り組めるところから一歩を踏み出し、多様な人材がそれぞれの能力を最大限に発揮できる組織を目指しましょう。これは、社員のエンゲージメント向上やイノベーション創出だけでなく、企業の社会的な責任を果たす上でも非常に重要です。
「人的資本経営」は、決して短期的な成果を求めるものではありません。それは、企業の根幹に関わる長期的な取り組みであり、経営戦略そのものです。中小企業にとっては、経営者と社員の距離が近いという強みを活かし、より人間中心の、温かみのある人的資本経営を実践できるチャンスでもあります。
社員一人ひとりの成長と幸福が、企業の持続的な成長と社会への価値提供に繋がっていく――そんな未来を描きながら、自社ならではの人的資本経営のあり方を追求していきましょう。
さて、ここまで見てきた採用、定着、そして人的資本経営といった取り組みを、より効率的かつ効果的に進めるためには、テクノロジーの活用が欠かせません。次の章では、人事DXや生成AIといった最新テクノロジーが、中小企業の人事業務や採用力強化にどのように貢献できるのかを探っていきます。ご期待ください。