中小企業の事業承継は、経営者が長年心血を注いできた事業や、そこで働く従業員の未来を次世代に託す、人生最大のイベントの一つです。前回の記事でご紹介したような実践的ステップを踏むことで、その成功確率は飛躍的に高まります。
しかし、事業承継の道のりは必ずしも平坦ではありません。多くの中小企業が、様々な要因によって計画通りに進まなかったり、思わぬトラブルに見舞われたりして、失敗に陥りやすい側面も持ち合わせています。これらの「落とし穴」の存在を事前に知り、その回避策を講じておくことが、事業承継をスムーズに、そして確実に成功させるために不可欠です。
ここでは、中小企業が事業承継において特に陥りやすい代表的な「落とし穴」と、それぞれの回避策について詳しく見ていきましょう。
7-1. 計画倒れを防ぐには?:計画実行の壁
【陥りやすい落とし穴】 事業承継の必要性は理解し、現状分析や計画策定まで行ったものの、その後の「計画実行」がなかなか進まない、「計画倒れ」になってしまうケースは非常に多いです。
【なぜ陥るのか?(根本原因)】
- 日々の業務が忙しすぎて、事業承継の計画実行に充てる時間や労力が確保できない。
- 誰が計画推進の責任を持つのか曖昧である。人事部が主体となるべきだが、その役割が明確でない。
- 計画が複雑すぎたり、非現実的すぎたりする。
- 関係者(社長、後継者候補、他の役員、従業員)の計画へのコミットメントや当事者意識が低い。
- 進捗を管理し、定期的に見直しを行う仕組みがない。
【回避策(具体的なアクション)】
- 推進体制の明確化と責任者の設置: 事業承継推進チームを正式に発足させ(ステップ6-2参照)、特に「人」に関する計画の推進責任者を人事部内に明確に定めます。
- 定期的なフォローアップ会議の義務付け: 計画の進捗を確認するための定期的な会議(例: 隔週または月1回)をカレンダーに入れ、必ず実施します。人事担当者が議事録を作成し、アクションアイテムと期限を管理します。
- 計画の簡素化と「スモールスタート」: 最初から完璧な計画を目指さず、まずは喫緊の課題解決に焦点を当てた、シンプルで実行可能な計画から始めます。「明日からできること」から着手します。
- 進捗の見える化: 計画のタイムラインや主要なマイルストーンを、チーム内で共有できるツール(共有フォルダ内のファイル、シンプルなプロジェクト管理ツールなど)で見える化し、全員が進捗状況を確認できるようにします。
- 経営トップの継続的なコミットメント: 社長自身が事業承継の重要性を常に意識し、計画実行に積極的に関与する姿勢を見せることが、全社のコミットメントを高める上で最も重要です。
7-2. 関係者間の合意形成とコミュニケーションの重要性
【陥りやすい落とし穴】 事業承継は、社長の家族、後継者候補、他の役員、従業員、取引先など、多くの関係者に影響を与えます。これらの関係者間で、事業承継の進め方や後継者について合意形成ができていなかったり、コミュニケーション不足によって不信感や対立が生じたりすることがあります。
【なぜ陥るのか?(根本原因)】
- 事業承継というセンシティブな話題を避けてしまい、オープンに話し合わない。
- 社長や後継者候補が、自身の考えや期待を関係者に明確に伝えない。
- 家族間の感情的な問題が事業承継に持ち込まれる。
- 従業員が、事業承継のプロセスや後継者について不安や不満を抱えるが、相談できる窓口がない。
- 外部の取引先や金融機関に、事業継続への不安を与えてしまう。
【回避策(具体的なアクション)】
- 早期かつオープンなコミュニケーションの開始: 事業承継の検討を始めた早い段階から、主要な関係者(家族、役員、キーパーソン)に対し、事業承継の意向や考えをオープンに伝えます。
- 関係者向けの説明会・対話会: 従業員全体や部門ごと、あるいは主要な取引先向けに、事業承継のプロセスや後継者について説明し、質問を受け付ける場(説明会、対話会など)を設けます。人事担当者が中心となり、社長や後継者候補と共に実施します。
- 本音で話し合える「安全な場」の確保: 社長と後継者候補、あるいは家族間など、特にセンシティブな話し合いが必要な場合は、中立的な立場である人事担当者や外部の事業承継コンサルタントなどがファシリテーターとして関与し、感情面にも配慮しながら本音で話し合える場を設けます。
- コミュニケーション計画の実行: ステップ6-2で策定したコミュニケーション計画に沿って、定期的に適切な情報を適切な相手に伝達します。不確実な情報の流布を防ぎ、信頼関係を維持します。
- 従業員の不安への寄り添い: 人事部が相談窓口となり、従業員が事業承継について抱える不安や疑問に真摯に耳を傾け、個別に対応します。健康経営の視点から、従業員のメンタルヘルスケアにも配慮します。
7-3. 後継者育成における「過干渉」と「放置」のワナ
【陥りやすい落とし穴】 後継者育成において、現社長が後継者の行動や意思決定に過干渉したり、逆にほとんど指導や権限移譲を行わず「放置」してしまったりする極端なケースがあります。どちらも後継者の成長を阻害し、事業承継の失敗に繋がります。
【なぜ陥るのか?(根本原因)】
- 過干渉: 社長が自身のやり方に固執し、後継者に任せることができない。後継者の失敗を過度に恐れる。権限移譲の心構えができていない(ステップ5-1参照)。
- 放置: 社長が多忙すぎて育成に時間をかけられない。後継者なら自分で考えてできるはずだと過信している。育成計画が曖昧である。
【回避策(具体的なアクション)】
- 権限移譲ルールの明確化と実践: どの業務や意思決定について、いつまでに権限を後継者に移譲するのか、具体的なルールを社長と人事で合意し、実行します。最初は小さな権限から始め、後継者の成長に合わせて段階的に広げます(ステップ3-3、5-1参照)。
- 定期的なメンタリングとフィードバック: 社長や経験豊富な役員がメンターとなり、後継者に対し定期的に面談を行い、成長をサポートします。単なる雑談ではなく、育成計画に基づいたフィードバックを具体的に行います(ステップ3-2、3-3、5-1参照)。人事部がメンター制度の設計・運用をサポートします。
- 「任せて見守る」社長の心構えへの働きかけ: 人事担当者は、社長に対し、権限委譲や後継者の成長を見守ることの重要性について、繰り返し働きかけます。必要に応じて、外部の事業承継コンサルタントに社長へのアドバイスを依頼することも有効です。
- ストレッチな目標設定とサポート体制: 後継者に対し、少し難易度の高い「ストレッチな目標」を設定し、それに挑戦させます。ただし、丸投げではなく、社長やメンター、人事が相談役となり、必要なサポートを提供します。
7-4. 親族内承継、従業員承継、M&A…それぞれのメリット・デメリットと注意点
【陥りやすい落とし穴】 事業承継の方法(親族内承継、従業員承継、M&A、外部からの招聘など)について、それぞれのメリット・デメリットや、選択した手法に特有の注意点を十分に理解せず、安易に決定してしまい、後に問題が発生する。
【なぜ陥るのか?(根本原因)】
- 感情的な理由(「子どもに継がせたい」など)で手法を決定し、客観的なメリット・デメリットを考慮しない。
- 税金や法務といった手続き面にばかり目が行き、「人」や組織への影響を十分に検討しない。
- 各手法を実践する上で必要となる資金調達や、関係者(従業員、取引先など)への説明といった課題を把握していない。
- 外部の専門家に相談せず、あるいは専門家の意見を鵜呑みにしてしまう。
【回避策(具体的なアクション)】
- 各事業承継手法に関する知識の習得: 社長と人事担当者が、親族内承継、従業員承継(MBOなど)、M&A(株式譲渡、事業譲渡など)、外部招聘(プロ経営者など)それぞれの基本的な仕組み、メリット、デメリット、必要な手続き、想定される課題(資金、税金、法務、人事、組織文化など)について正確な知識を習得します。経済産業省や事業承継・引継ぎ支援センターなどが提供する情報を活用します。
- 客観的な視点での比較検討: 貴社の現状分析や将来ビジョンに基づき、それぞれの事業承継手法が、会社の発展、「人」の安定、そしてスムーズなバトンタッチという観点から最も適しているかを、客観的に比較検討します。人事部は、「人」と組織への影響という視点から積極的に意見具申を行います。
- 複数の専門家への相談と連携: 税理士(税金、評価)、弁護士(法務、契約)、事業承継コンサルタント(計画策定、組織、人材)、金融機関(資金調達)、M&A仲介会社など、複数の専門家に相談し、それぞれの視点からのアドバイスを得ます。人事部は、これらの専門家と連携し、特に「人」に関する情報や課題を共有します。
- 選択した手法の課題に対する事前準備: 例えば従業員承継であれば、従業員の資金調達をどう支援するか、M&Aであれば、買収後の組織文化や人材の統合(PMI: Post Merger Integration)をどう進めるか、といった特有の課題に対し、事前に計画を立て、準備を進めます。
7-5. 後継者と現経営者の対立、社内の反発をどう乗り越えるか
【陥りやすい落とし穴】 事業承継の過程や事業承継後に、後継者と現社長の間で経営方針ややり方について対立が生じたり、後継者に対する社内からの反発(「なぜあの人が?」「これまでのやり方を変えられたくない」など)が起きたりする。
【なぜ陥るのか?(根本原因)】
- ビジョンや価値観の共有が不十分である。
- 社長が権限移譲後も経営に過干渉する(7-3のワナ)。
- 後継者が一方的にやり方を変えようとし、従業員の理解や共感を得られていない。
- 事業承継****プロセスの透明性が低く、不公平感が生まれる。
- 他の役員や従業員が、自身の役割や処遇の変化に不安を感じている。
【回避策(具体的なアクション)】
- ビジョンと価値観の対話: 社長と後継者が、会社の未来について率直に話し合い、互いのビジョンや価値観を深く理解する機会を定期的に設けます。人事担当者がこの対話をサポートします。
- 権限委譲の徹底と役割の明確化: 事業承継後は、現社長は原則として経営の意思決定から身を引き、後継者のリーダーシップを尊重することを徹底します(7-3の回避策参照)。両者の役割分担を明確にし、社内に周知します。
- 後継者からの丁寧なコミュニケーション: 後継者は、経営方針ややり方を変える必要がある場合、その背景や目的を従業員に丁寧に説明し、理解と共感を求めます。一方的な指示ではなく、対話を通じて進めます。人事部がコミュニケーション戦略の策定を支援します。
- 公平性と透明性のあるプロセス: 事業承継の候補者選定や育成****プロセスを、可能な範囲で透明性を持って行い、公平性が保たれていることを従業員に示す努力をします。
- キーパーソンへの配慮と役割の再定義: 後継者にならなかった役員や、会社の発展に貢献してきたベテラン従業員に対し、事業承継後の新しい体制における彼らの重要な役割や期待を伝え、不安を解消し、新しい経営体制への協力を促します。人事部が個別の面談などを通じてサポートします。
- 外部の仲介役の活用: 対立が深刻化した場合など、当事者だけでは解決が難しい場合は、事業承継コンサルタントや弁護士など、中立的な外部の専門家に間に入ってもらい、対立解消を支援してもらうことも有効です。
次なるステップへ:成功事例から学び、貴社の実践へ
今回は、中小企業が事業承継において陥りやすい代表的な「落とし穴」とその回避策について、多角的な視点から解説しました。事業承継は、これらの課題をいかに予見し、適切に対処できるかが、失敗を回避し、成功に繋がるかどうかの大きな分かれ道となります。
しかし、落とし穴があるからといって、事業承継を諦める必要はありません。多くの中小企業が、これらの困難を乗り越え、見事に事業承継を成功させています。彼らは、今回ご紹介したような回避策を実践し、時には専門家の力も借りながら、粘り強くプロセスを進めてきました。
次回の記事では、いよいよこのシリーズの集大成として、実際に「人」に関する戦略や、今回解説したような落とし穴への適切な対処によって事業承継を成功させた中小企業の事例を複数ご紹介します。具体的な事例から学ぶことで、貴社が抱える課題へのヒントや、自社での実践に向けた具体的なイメージを掴んでいただけるはずです。
社長、人事部の皆様、事業承継という挑戦に対し、落とし穴の存在を知り、その回避策を講じることで、貴社の成功確率は大きく向上します。そして、次回の成功事例から、事業承継を必ず成功させるという決意を新たにしていただければ幸いです。どうぞご期待ください。