04-2. 「コスト削減」だけでは不十分!危機を成長に変える人的資本経営視点

中小企業経営者の皆様、人事担当者の皆様、そして従業員の健康をサポートされる産業医・保健師の皆様。

前のセクションでは、「物価高」「原材料高」という避けがたい現実が、中小企業の財務だけでなく、目に見えない形で「人」と「組織」に深刻な影響を及ぼしている現状を確認しました。従業員の生活不安、士気低下、優秀人材の流出リスクといった「隠れたコスト」は、放置すれば企業の活力を確実に削いでいきます。

この手強い逆風に対し、反射的に多くの企業が考えるのが「コスト削減」です。もちろん、無駄を徹底的に排除することは経営において常に重要です。しかし、この危機的な状況下で、単にコストだけを削減しようとするアプローチは、往々にして「人」という最も重要な資産の価値を損ない、結果として企業の長期的な競争力を低下させてしまう危険性を孕んでいます。

ここで求められているのは、従来の枠を超えた、より本質的な経営の視点です。それが、「人的資本経営」という考え方であり、中小企業がこの危機を単なる試練で終わらせず、むしろ成長への転換点とするための強力な羅針盤となります。

2-1. 「守り」から「攻め」へ:物価高下での人的資本への考え方

物価高原材料高によるコスト増圧力を受けた際、多くの企業が最初に取る行動は「守り」の姿勢、すなわち費用を圧縮することです。特に人件費、教育研修費、採用費などは、その対象となりやすい項目かもしれません。しかし、人的資本経営の視点に立てば、人材は単なる費用ではなく、企業の持続的な価値創造の源泉である「資本」です。この「資本」への投資を縮小することは、将来の成長の芽を摘むことに他なりません。

物価高という厳しい環境下だからこそ、この「守り」から「攻め」への思考転換が決定的に重要になります。ここでいう「攻め」とは、無謀な拡大戦略ではなく、限りあるリソースの中で、「人」という人的資本の価値を最大限に引き出すための戦略的な投資です。

例えば、短期的なコスト削減のために研修予算をゼロにしたとします。これは目先の費用は抑えられますが、従業員のスキルは陳腐化し、新しい技術や変化に対応できなくなります。結果として、長期的な生産性は低下し、新しい市場への対応も遅れ、企業全体の競争力はじり貧になるでしょう。これは、短期的なコスト削減と引き換えに、長期的な人的資本価値を大きく損なっている典型例です。

人的資本経営の視点を持つ企業は、このような状況下でも、どこに、どのように「人への投資」を行うべきかを戦略的に見極めます。例えば、デジタル化による効率化スキル、変化への適応力を高める研修、あるいは従業員の健康を守るための投資など、それが将来的な生産性向上や新しい価値創造、リスク軽減に繋がる投資であれば、たとえ物価高で経営が厳しくとも、優先順位を上げて実行することを検討します。

これは、短期的な財務指標だけでなく、長期的な企業価値、すなわち不確実性の高い時代を生き抜くための企業の「レジリエンス(回復力、適応力)」を高めるための重要な判断です。この「守り」から「攻め」、つまり「費用」から「投資」への視点転換こそが、物価高下における人的資本経営の出発点となります。

2-2. なぜ今、人事戦略が中小企業の命運を分けるのか?

かつて、人事部門は主に労務管理や給与計算といった管理業務を担う存在と見なされることが少なくありませんでした。しかし、現代において、特に物価高原材料高という激しい外部環境の変化に直面している中小企業にとって、人事戦略はもはやバックオフィス機能ではなく、企業の存続と成長、すなわち「命運」を分けるほどの極めて重要な経営戦略そのものとなっています。

その理由は、物価高下で企業が直面する核心的な課題が、「人」に深く関わっているからです。

  • 生産性向上の絶対的な必要性: コスト増大の中で利益を確保するには、一人当たりの生産性を飛躍的に向上させるしかありません。従業員のスキル、モチベーション、エンゲージメント、そして効率的な働き方。これらはすべて「人」に関わる要素であり、人事戦略が直接的に影響を与えうる領域です。適切な人事戦略なくして、生産性の抜本的な向上は望めません。
  • 変化への柔軟な適応: 物価高だけでなく、市場ニーズの変化、技術革新(後述する生成AIなど)への対応が不可欠です。企業がこれらの変化に迅速かつ柔軟に適応できるかどうかは、従業員が新しいスキルを学び、新しいやり方を受け入れ、自律的に行動できるかどうかにかかっています。これは、人材育成や組織開発といった人事戦略の成果に直結します。
  • 人材獲得競争の激化と定着の重要性: 労働人口の減少に加え、物価高による生活不安は、従業員の「より良い条件の職場へ」という意識を高め、人材流動性を高める可能性があります。優秀な人材を採用し、そして何よりもコストをかけて採用した人材を流出させずに定着させることは、中小企業物価高対策としても極めて重要です。採用定着は、人事戦略の最も基本的ながら、今、最も難しい課題の一つです。
  • 隠れたコスト(健康リスク)の顕在化: セクション1でも触れたように、経済的ストレスや経営のプレッシャーは従業員の心身の健康を損ない、欠勤や生産性低下といった形でコストとなって跳ね返ります。健康経営を組み込んだ人事戦略は、これらのリスクを管理し、企業全体のレジリエンスを高める上で不可欠な経営リスク対策です。

これらの課題は、財務や営業といった従来の経営機能だけでは解決できません。従業員の意識、能力、モチベーション、そして働く環境といった「人」と「組織」の側面からアプローチする必要があります。だからこそ、物価高という逆境は、中小企業人事部門に対し、管理機能から脱却し、経営の根幹に関わる「戦略人事」へと進化することを強く求めているのです。

2-3. 物価高下で人的資本価値を最大化するキーポイント

では、具体的に物価高原材料高下で中小企業が「攻め」の人事戦略を実行し、人的資本の価値を最大化するためには、どのような点に焦点を当てるべきでしょうか。詳細な施策は今後のセクションで深掘りしますが、ここではその重要なキーポイントを提示します。

  1. 従業員の健康とウェルビーイングへの戦略的投資(健康経営): 物価高ストレスを含む従業員の心身の健康を守ることは、欠勤やプレゼンティーイズムによる生産性低下という「隠れたコスト」を防ぐ最も直接的な対策です。これは単なる福利厚生ではなく、有事における事業継続力強化に繋がる経営リスク対策であり、人的資本経営の揺るぎない基盤です。中小企業にとっては、産業医保健師との連携強化も重要な要素となります。
  2. 効率と柔軟性を両立する働き方の設計(働き方改革): 働く場所、時間、ツールを見直すことで、コスト削減生産性向上を同時に目指します。リモートワークやフレックスタイムといった柔軟な働き方は、従業員のエンゲージメント定着率を高める非金銭的な魅力ともなり得ます。中小企業の状況に合わせた実現可能な働き方の最適化が重要です。
  3. デジタル化と生成AI活用による業務の高度化・効率化: 働き方改革とも連動しますが、ルーチンワークの自動化や情報活用の高度化を通じて、限られた人的資本でより大きな成果を出すための技術活用は不可欠です。生成AIはまだ新しい技術ですが、中小企業でも活用できる業務効率化の可能性を秘めており、賢く導入を検討することが生産性向上に繋がります。
  4. 賃金以外の「働く魅力」向上(従業員エンゲージメントと定着**):** 物価高下で大幅な賃上げが難しい場合、従業員が「この会社で働き続けたい」と感じる魅力を賃金以外に見出す必要があります。承認と感謝、成長機会、公正な評価、良好な人間関係、会社のビジョンへの共感など、従業員エンゲージメントを高めるための施策は、定着率向上と生産性向上に直結します。
  5. 戦略的な採用育成**:** 採用環境が厳しさを増す中で、自社の魅力を効果的に伝え、求める人材を惹きつける戦略が必要です。同時に、外部採用だけに頼らず、既存の従業員のスキルアップやリスキリングに戦略的に投資し、変化に対応できる人材を「育成」することも、長期的なコスト削減生産性向上に繋がります。

これらのキーポイントは、単に並列する施策ではなく、相互に連携し合うことで、中小企業人的資本を強化し、物価高という逆風を乗り越えるための強力な推進力となります。例えば、健康経営や柔軟な働き方従業員エンゲージメントを高め、それが定着率向上や生産性向上に繋がり、結果として人件費効率の改善や新たな採用コストの抑制に寄与するといった循環が生まれます。

中小企業にとって、これらの全てに一度に取り組むことは難しいかもしれません。しかし、自社の現状を冷静に見つめ、「どこから着手すべきか」「何が最も効果的か」を見極め、戦略的に優先順位をつけて実行していくことが、物価高という逆境を乗り越え、企業をさらに強くするための重要なステップとなります。

次のセクションからは、これらのキーポイントをさらに掘り下げ、中小企業でも実践可能な具体的な施策や、国内外の参考になる事例をご紹介していきます。まずは「健康経営」が、物価高下でいかに中小企業のリスクを防ぎ、生産性を高める必須戦略となるのか、具体的に見ていきましょう。