前セクションでは、「物価高・原材料高」という逆境において、「人的資本経営」という視点に立った戦略的な人事戦略がいかに重要であるか、そして「守り」から「攻め」への思考転換の必要性について確認しました。未来を創る「人への投資」こそが、この難局を乗り越える鍵だとお伝えした通りです。
では、その「人への投資」の最も基礎的かつ、物価高というストレスフルな現代において喫緊の課題となるのが、「働く人々の健康」です。
健康経営とは、単に病気やケガを減らすというだけでなく、従業員の健康維持・増進を企業の経営戦略として位置づけ、積極的に取り組むことで、組織全体の活性化や生産性向上を目指す考え方です。そして、物価高というコスト圧力が強い今、この健康経営の重要性はかつてないほど高まっています。それはなぜでしょうか。
3-1. 物価高・プレッシャー下の従業員ストレスと健康経営の重要性
想像してみてください。毎日のように報道される値上げのニュース。スーパーやガソリンスタンドに行くたびに感じる、確実に増えている家計の負担。そして、会社の経営状況への漠然とした不安や、コスト削減に伴う業務効率化要求によるプレッシャー。これらの経済的・精神的なストレスは、従業員一人ひとりの心と体に確実に、そして深く蓄積されています。
産業医や保健師の皆様は、日々の面談や職場での従業員の様子を通じて、すでにこうした疲弊や不調のサインを感じ取っているかもしれません。不眠、肩こり、胃痛といった身体的なサインから、イライラしやすい、集中力が続かない、以前より元気がないといったメンタルヘルスに関わるサインまで、ストレスの現れ方は多様です。これらのサインは、「物価高」という外部環境と「経営プレッシャー」という内部環境が複雑に絡み合って生じている可能性が高いのです。
こうした従業員の健康リスクの高まりは、単に個人の問題として片付けられるものではありません。それは、セクション1でも触れた中小企業にとって見えにくい、しかし確実に企業体力を削ぐ「隠れたコスト」となって跳ね返ってきます。
- 欠勤率の上昇: 体調不良やメンタルヘルス不調による急な欠勤が増えれば、業務が滞り、他の従業員への負担が増加します。これは代替要員の手配や残業代発生など、直接的なコスト増に繋がります。
- プレゼンティーイズムによる生産性低下: 体調が悪くても無理して出勤することで、集中力や判断力が鈍り、通常通りのパフォーマンスを発揮できない状態です。この「出勤しているのに生産性が低い」状態は、欠勤以上に気づきにくく、組織全体の生産性に与える負の影響は大きいと言われています。
- モチベーション・エンゲージメントの低下: ストレスや不調を抱えたままでは、仕事への意欲や会社への愛着(従業員エンゲージメント)を持つことは難しくなります。「何のために頑張っているのか」という疑問や疲弊感は、組織の活力を奪います。
- ヒューマンエラーの増加: 集中力や注意力の散漫は、ミスの増加や思わぬ事故に繋がりかねません。これは品質問題、納期遅延、さらには安全に関わるリスクを高めます。
物価高という厳しい状況下では、これらの健康に関わる「隠れたコスト」は、財務上のコスト削減効果を容易に相殺し、時にはそれをはるかに上回る損失をもたらします。だからこそ、今、健康経営は単なる福利厚生やCSR(企業の社会的責任)としてではなく、中小企業が物価高という危機を乗り越え、持続的に生産性を高めるための、必須の経営戦略なのです。従業員の健康を守り、ストレスを適切にケアすることは、企業が自らの足元を固め、未来への生産性投資を実らせるための最も重要な基盤となります。これは、欧米でも「Employee Well-being (従業員の幸福・健康)」への投資が、不確実な経済状況下での企業レジリエンスを高める要素として注目されているトレンドとも一致しています。
3-2. 実践!中小企業で取り組める健康経営施策(メンタルヘルス、フィジカルヘルス)
「健康経営の重要性は分かったけれど、大企業のような専門部署や潤沢な予算はないし、何から始めれば良いのか…」と感じる中小企業の社長や人事担当者、産業医・保健師の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、健康経営は必ずしも大掛かりな取り組みである必要はありません。中小企業の規模や状況に合わせた、実践的かつ効果的な施策はたくさんあります。重要なのは、「人」という人的資本を大切にするという経営の意思を明確に示し、できることからスモールスタートで始めることです。
ここでは、メンタルヘルスとフィジカルヘルスの両面から、中小企業でも比較的取り組みやすい具体的な施策例をご紹介します。「健康経営優良法人(中小規模法人部門)」に認定されている中小企業の事例などを参考に、自社に取り入れられそうなものがないか考えてみてください。
【メンタルヘルスケアの実践例】
- ストレスチェックとその結果活用: 法令で定められている年1回のストレスチェックを単に実施するだけでなく、その結果(特に集団分析)を真剣に受け止め、職場の課題発見に活かします。例えば、コミュニケーションが不足している部署や、業務負荷が高い部署が特定されたら、人事と管理職、そして産業医・保健師が連携して改善策(例:管理職向けラインケア研修、業務分担の見直し)を検討・実行します。
- 相談しやすい窓口の設置・周知: 社内に産業医・保健師がいる場合は、彼らとの面談機会を従業員に分かりやすく周知し、気軽に利用できる体制を整えます。社内にリソースがない場合でも、外部のEAP(従業員支援プログラム)サービスや、加入している健康保険組合が提供するメンタルヘルス相談サービスなど、中小企業向けの安価な、または無料で利用できる外部資源は多数あります。これらの窓口の存在と利用方法を、社内掲示やメールで繰り返し周知します。
- 管理職向けラインケア研修: 管理職が部下の変化に気づき、適切に声をかけ、必要であれば専門家(産業医/保健師など)につなぐスキルは、メンタルヘルス不調の早期発見・早期対応に不可欠です。外部機関の短期研修やオンライン研修などを活用し、管理職の意識とスキル向上を図ります。
- コミュニケーションの活性化施策: 従業員同士や上司と部下の間の円滑なコミュニケーションは、ストレスを軽減し、孤立を防ぐ上で極めて重要です。週に一度のチームミーティングでの雑談タイム、上司と部下の定期的な1on1ミーティングの推奨、社内イベント(例:費用を抑えた社内ランチ会、スポーツイベントなど)の実施などが考えられます。実際に、ある製造業の中小企業では、部署を超えたシャッフルランチ制度を導入したことで、従業員間の人間関係が改善し、職場の雰囲気が明るくなったという事例があります。
- 心理的安全性の高い組織文化づくり: 経営層や管理職が、自身の健康やストレスについてオープンに話したり、失敗を責めるのではなく学びの機会として捉えたりする姿勢を示すことで、「弱みを見せても大丈夫」「新しいことに挑戦しても大丈夫」という安心感が生まれ、従業員が安心して働ける環境が醸成されます。
【フィジカルヘルスケアの実践例】
- 定期健康診断受診率100%を目指す: 健康診断は健康リスクの早期発見の基本です。従業員への受診推奨を徹底し、受診後のフォローアップ(産業医・保健師による面談指導、医療機関への受診勧奨)を確実に行います。健康経営優良法人認定でも重視される項目です。
- 運動機会の提供・奨励: 大掛かりな設備投資は不要です。勤務時間中の簡単なストレッチタイムの導入、昼休みや終業後のウォーキング推奨、歩数計アプリを使ったチーム対抗ウォーキングイベント(アプリによっては無料で利用可能)などが考えられます。社内スペースにストレッチコーナーを設けるだけでも、従業員の健康意識向上に繋がります。あるサービス業の中小企業では、社内ウォーキングイベントを通じて従業員間のコミュニケーションも活性化し、一石二鳥の効果があったと報告されています。
- 健康的な食事の推奨・提供: 社員食堂があればヘルシーメニューを提供する、休憩スペースに健康的な間食(例:ナッツ、ドライフルーツ、野菜ジュースなど)を置く、自動販売機のラインナップにヘルシーな飲み物を加える、外部の置き型社食サービス(中小企業向けプランがある場合も)を利用するなど、小さな工夫で従業員の食健康をサポートできます。
- 人間ドック受診補助や特定保健指導の奨励: 法定健診以上の健康診断(人間ドックなど)への補助制度や、健康診断結果に基づく特定保健指導の積極的な利用推奨は、従業員の自身の健康への意識を高め、重症化予防に繋がります。
- 快適な職場環境整備: 長時間労働や不適切な作業環境は、フィジカルヘルスを損ないます。適切な休憩時間の確保、VDT作業(パソコン作業)に関するガイドラインの周知、腰痛予防のための職場巡視と改善(椅子の高さ調整、ディスプレイの位置など)など、産業医・保健師のアドバイスも得ながら、健康に配慮した職場環境を整備します。
これらの施策は、中小企業の規模や業種、予算に合わせてカスタマイズ可能です。重要なのは、経営トップのコミットメントのもと、人事部門が中心となり、産業医・保健師、そして現場の協力を得ながら、着実に実行し、従業員への周知を続けることです。
3-3. 健康経営が生産性向上、ひいてはコスト削減に繋がるメカニズム
健康経営への投資は、短期的に見れば費用が発生します。しかし、その費用は、長期的に見れば遥かに大きなリターンとなって中小企業に還元されます。これが、健康経営が単なる福利厚生ではなく、物価高下でこそ必須の戦略である理由です。
健康経営が生産性向上、ひいては広義のコスト削減に繋がる主なメカニズムは以下の通りです。
- 「隠れたコスト」の削減:
- 欠勤・休職の減少: 従業員が心身ともに健康であれば、病気やメンタルヘルス不調による欠勤や休職が減少します。これにより、代替要員の手配コスト、他の従業員の業務負担増による残業代発生、業務の遅延やミスの発生といった直接的・間接的なコストが削減されます。
- プレゼンティーイズムの改善: 体調が悪いまま出勤しても、生産性は低下します。健康経営によって従業員の健康状態が改善すれば、このプレゼンティーイズムが解消され、本来の生産性を発揮できるようになります。これは、従業員数が多いほど大きな生産性向上効果に繋がります。
- 医療費の抑制: 従業員の健康状態が維持・向上することで、長期的に見れば医療費の増加を抑制する効果も期待できます(健康保険組合の財政改善など)。
- 生産性の直接的な向上:
- 心身ともに健康で、ストレスが適切に管理されている従業員は、集中力が高まり、より効率的に業務を遂行できます。
- 健康な職場は雰囲気も明るく、従業員間のコミュニケーションが円滑になり、チームワークが強化されます。これにより、協力体制が生まれ、問題解決もスムーズに進み、組織全体の生産性が向上します。
- 健康への投資は、従業員の企業に対する信頼感やエンゲージメントを高めます。「会社は自分たちの健康を大切にしてくれている」と感じることで、会社への貢献意欲や仕事へのモチベーションが高まります。
- 優秀な人材の採用**・定着:**
- 健康経営に積極的に取り組む企業は、「従業員を大切にする企業」として評判が高まり、求職者にとって魅力的な採用先となります。特に物価高下で賃金以外の魅力が重要になる中、これは大きな差別化要因となります。
- 健康がサポートされ、安心して働ける環境は、既存の従業員の定着率を高めます。優秀な人材の流出を防ぐことは、新たな採用や育成にかかるコストを抑制する上で極めて重要です。
これらのメカニズムを通じて、健康経営は単なる「良いこと」ではなく、物価高という厳しい経済状況下で、中小企業が経営リスクを管理し、生産性を向上させ、コスト削減(隠れたコストの回避)を実現するための、極めて合理的で戦略的な投資なのです。
まとめ:健康は未来への投資
「物価高でそれどころではない」と感じる時こそ、健康経営の重要性を再認識する必要があります。従業員の健康は、企業にとって最も価値のある人的資本であり、あらゆる生産性やイノベーションの源泉です。特に中小企業においては、一人ひとりの従業員の存在感が大きいため、その健康が組織全体のパフォーマンスに与える影響も大きくなります。
まずはできることから。ストレスチェックの活用、相談しやすい雰囲気づくり、簡単な運動推奨など、中小企業の規模や状況に合わせた一歩を、スモールスタートで踏み出すことが重要です。そして、産業医や保健師といった専門家の知見を積極的に活かし、人事部門と連携して健康経営の実践体制を構築していくことが、成功の鍵となります。
働く人が心身ともに健康であってこそ、次のステップ、すなわち「働き方改革」による効率化や「生成AI活用」による新しい価値創造といった、さらなる「攻め」の人事戦略が効果を最大限に発揮します。
次のセクションでは、物価高下での「働き方改革」を、どのようにコスト削減と生産性向上、そして従業員エンゲージメントの向上に繋げていくかについて掘り下げていきます。これは、健康経営と並び、中小企業が物価高時代を乗り越えるための強力な二本柱となる戦略です。