これまでの記事で、賃上げを単なるコストではなく、人材確保や定着、そして企業成長のための戦略的な投資として捉える視点、そして具体的な手法について見てきました。しかし、どんなに素晴らしい賃上げ戦略も、実際の導入・運用段階でつまずいてしまっては意味がありません。
特に中小企業の皆様にとって、日々の業務に追われる中で、賃上げに関する法的なルール、活用できる公的な支援制度、そして最も重要な「従業員への伝え方」といった、実務的かつ見落としがちなポイントを網羅するのは容易ではないでしょう。
このセクションでは、賃上げをスムーズかつ効果的に導入・運用するために、経営者・人事担当者の皆様が「これだけは知っておきたい」という重要ポイントを解説します。法改正への対応、活用しない手はない国の支援策、そして従業員からの納得と共感を呼ぶためのコミュニケーション術に焦点を当てます。
6-1. 知っておきたい賃上げ関連の法改正・税制優遇
賃上げは、従業員の労働条件の根幹に関わるため、労働関連法規に則って適切に進める必要があります。また、国は企業の賃上げを後押しするため、様々な税制上の優遇措置を設けています。これらの最新情報を把握しておくことは、法令遵守はもとより、賃上げコストを抑え、最大限のメリットを享受するためにも不可欠です。
知っておくべき法的なポイント:
- 労働条件の明示: 賃金は労働条件の主要な要素であり、変更する際には従業員への丁寧な説明と書面(労働条件通知書など)での明示が義務付けられています。特に、基本給だけでなく、諸手当やインセンティブ、評価と賃金の連動ルールなどを変更する場合、変更内容を明確に伝える必要があります。
- 就業規則の変更: 多くの企業では、給与体系や昇給・賞与に関する事項を就業規則に定めています。賃上げに伴ってこれらのルールを変更する場合、原則として従業員の過半数代表者または労働組合の意見を聴き、労働基準監督署に届け出る必要があります。また、従業員への周知も徹底しなければなりません。
- 不利益変更への配慮: 一律のベースアップであれば問題になりにくいですが、新しい評価制度に基づき賃金にメリハリをつける場合など、一部の従業員にとって賃金が減少する可能性(不利益変更)が生じる場合は、労働契約法上の制約があり、より慎重な手続きと従業員の個別同意が必要となる場合があります。
- 同一労働同一賃金への対応: 正社員と非正規社員(パート、契約社員など)の間で、業務内容や貢献度が同等であるにも関わらず、不合理な賃金格差がある場合は是正が必要です。賃上げを機に、正規・非正規間の待遇バランスを見直すことも重要です。
これらの労働法関連の最新情報や具体的な手続きについては、厚生労働省のウェブサイトや、各都道府県の労働局、労働基準監督署の窓報を確認することが最も確実です。
活用したい税制優遇:
国は、企業の賃上げを促進するための税制上の優遇措置(「賃上げ促進税制」など)を設けています。これは、一定の要件を満たして従業員の給与等支給額を増加させた企業に対し、その増加額の一部を法人税(所得税)から控除できる制度です。
- 制度の概要: 前年度と比較して給与支給総額が一定割合以上増加した場合に、その増加額に対し一定割合の税額控除が適用されます。中小企業に対しては、大企業よりも有利な控除率が設定されていることが多いです。
- メリット: 賃上げにかかる実質的なコストを税負担の軽減によって補うことができます。
ただし、この税制優遇の適用要件、控除率、対象期間などは、毎年の税制改正によって変更される可能性があります。最も確実な情報を得るためには、経済産業省、中小企業庁、または国税庁のウェブサイトを確認するか、顧問税理士に相談することが不可欠です。賃上げを検討する際には、最新の税制情報を確認し、適用要件を満たせるように賃上げ計画を立てることを強くお勧めします。
6-2. 活用できる国の支援策・助成金情報
賃上げを実施する中小企業を支援するため、国や自治体は様々な助成金や補助金制度を提供しています。これらの制度をうまく活用することで、賃上げにかかる財源の一部を補填したり、賃上げと連携させた人事制度改革や生産性向上への投資を後押ししてもらったりすることが可能です。
代表的な支援策・助成金のタイプ:
- 雇用関係助成金(厚生労働省系):
- キャリアアップ助成金: 非正規雇用労働者のキャリアアップ(正社員化、賃金規定改定による昇給、有期雇用から無期雇用への転換など)を促進した事業主に対して支給される助成金です。賃金規定等改定コースなど、賃上げに直接・間接的に関連するコースがあります。
- その他、労働時間短縮や生産性向上に資する取り組みと合わせて賃金制度を見直した場合などに活用できる助成金が設定されることがあります。
- 生産性向上・事業再構築関連の補助金(経済産業省系など):
- ITツール導入、設備投資、販路開拓など、企業の生産性向上や事業構造転換を支援する補助金の中には、従業員の賃上げを要件の一部としているものや、加点評価としているものがあります。これらの補助金を活用して会社の稼ぐ力を高めることが、賃上げの持続可能な財源確保に繋がります。
これらの助成金や支援策は、募集期間が限られていたり、予算上限があったり、申請前に特定の計画認定が必要だったりと、制度ごとに詳細な要件や手続きが異なります。 また、制度内容は頻繁に見直されます。
活用するためのポイント:
- 最新情報の収集: 厚生労働省、経済産業省、中小企業庁のウェブサイト、各都道府県の労働局やハローワーク、中小企業支援センターなどが、最新の助成金・支援策情報を提供しています。これらの情報を定期的にチェックすることが重要です。
- 要件の確認: 制度の目的、対象者、支給要件、支給額、申請期間などを詳細に確認し、自社の賃上げ計画に合致するか見極めます。
- 計画的な申請: 多くの助成金・補助金は、賃上げ実施や設備投資を行う「前に」計画を提出し、認定を受ける必要があります。後付けでは申請できないことがほとんどなので、賃上げ計画と並行して情報収集・検討を進める必要があります。
- 専門家への相談: 社会保険労務士や中小企業診断士など、助成金・補助金活用に詳しい専門家に相談することも有効です。
国の支援策や助成金は、中小企業が賃上げに伴う経済的負担を軽減し、より戦略的な人的投資を行うための強力なツールです。情報収集を怠らず、積極的に活用することを検討しましょう。
6-3. 従業員との丁寧なコミュニケーション方法
賃上げ戦略の成功は、金額や制度設計だけでなく、それを従業員にどう伝え、理解と納得を得るかにかかっています。コミュニケーション不足は、せっかくの賃上げの効果を半減させ、かえって不信感を生むことすらあります。
賃上げというデリケートなテーマだからこそ、以下のような点を意識した丁寧なコミュニケーションが不可欠です。
何を伝えるか:
- 賃上げの「なぜ」: 物価高騰、人材確保の必要性、そして「日頃の皆さんの頑張りに報いたい」「今後も共に成長していきたい」といった会社の率直な思いや経営戦略(人的資本への投資であることなど)を伝えます。
- 賃上げの「中身」: ベースアップ、定昇、賞与、手当など、どの手法でどの程度賃上げが行われるのか、具体的な金額や割合、適用時期を明確に伝えます。
- 新しい制度の「意味」: 人事評価制度や給与体系を見直した場合、その目的(例:頑張りがより報酬に反映されるようにするため、新しい役割やスキルを正当に評価するためなど)や、具体的な評価基準、そして評価結果がどのように賃金や昇進に繋がるのかを分かりやすく説明します。図やグラフを用いると理解が深まります。
- 会社からの「期待」: 賃上げは投資であり、会社として期待する成果や貢献、身につけてほしいスキルなどを伝えます。ただし、これは一方的な要求ではなく、「賃上げを通じて皆さんの成長と会社の成長を共に実現していきたい」という協力のメッセージとして伝えることが重要です。
- 今後の「見通し」: 今後も継続的に賃金や働きがいについて見直していく方針や、会社の将来ビジョンを共有し、従業員が安心して長期的に働くことができる環境であることを示します。
どのように伝えるか:
- 適切なタイミングと十分な準備期間: 決定直後ではなく、就業規則変更の手続きや社員への説明会準備などを終え、質問にも対応できる体制を整えてから発表します。実施日の数週間前には告知し、周知期間を設けるのが望ましいです。
- 複数の伝達手段の活用: 全体説明会(経営層からのトップメッセージは必須)、部門ごとの説明会、書面での通知(労働条件通知書の改訂版交付)、そして最も重要な個別面談を組み合わせます。
- 双方向のコミュニケーション: 一方的な説明で終わらせず、質疑応答の時間を十分に設けます。従業員からの懸念や不満が出た場合も、感情的に対応せず、真摯に耳を傾け、誠実に対応する姿勢が信頼を生みます。アンケートなどを実施して意見を収集するのも有効です。
- 管理職への事前研修: 賃上げや制度変更について、管理職自身が内容を正確に理解し、自信を持って部下に説明・対話できるよう、事前に研修や情報共有を徹底します。管理職が曖昧な対応をすると、従業員の不信感に繋がります。
- 透明性と一貫性: なぜそのように決まったのか、判断の根拠を可能な限り正直に伝えます。不都合な真実(例:今回は大幅な賃上げは難しい理由など)であっても、ごまかさずに誠実に伝える方が、長期的な信頼に繋がります。一度決めた方針やルールは、特段の事情がない限り、一貫して運用することが重要です。
賃上げは、従業員のモチベーションに直結する非常にセンシティブなテーマです。金額や制度設計以上に、**「会社は自分たちをどう評価し、どのように向き合ってくれているのか」**という、企業の姿勢が問われます。丁寧で誠実なコミュニケーションは、賃上げを単なる「お金の話」ではなく、従業員と会社の信頼関係を深め、共に未来を創るための重要なプロセスに変える力を持っています。
このセクションでは、賃上げ導入における法改正や税制優遇、国の支援策といった見落としがちな実務的ポイントと、従業員の納得を得るためのコミュニケーションの重要性について解説しました。これらの点をしっかりと押さえることで、賃上げをよりスムーズかつ効果的に、そして従業員との良好な関係を維持しながら進めることができます。
次の最終セクションでは、これまでの賃上げに関する議論全体を振り返り、それがどのように企業の持続的な成長や「人的資本経営」、そして「企業価値向上」に繋がるのか、その戦略的な意義を改めて強調し、読者の皆様が次の一歩を踏み出すためのエールを送ります。