前回のセッションでは、中小企業が海外事業を展開する際に直面する、大企業とのリソースの差や、事前の準備不足から生じる様々なリスクについて触れました。「なんとなく」進めることの危険性についてもご理解いただけたかと思います。
しかし、海外事業の成功を左右する最も重要でありながら、時に最も見落とされがちな要素。それが「人」、つまり「人材」に関わる課題です。
社長様は「誰を海外に行かせるか」「現地の社員をどうマネジメントするか」に、人事部の皆様は「どうやって優秀な人材を確保・育成し、異文化の中でパフォーマンスを最大化させるか」「複雑な海外の労務にどう対応するか」に、そして産業医や保健師の皆様は「異国の地で働く従業員の心と体の健康をどう守るか」に、それぞれ深く関わる課題です。
ここでは、人事・労務のプロフェッショナルな視点から、中小企業の海外事業展開で特に顕著となる「人材」に関する具体的な課題を深掘りし、それが貴社の海外事業、ひいては国内事業にどのような影響を及ぼしうるのかを考えていきます。
2-1. 優秀な「グローバル人材」の採用・確保はなぜ難しい?(駐在員・現地社員)
海外で事業を立ち上げ、運営するには、必ず「人」が必要です。そして、その「人」こそが、海外事業成功の生命線となります。しかし、中小企業にとって、この「人材」の確保が最初の、そして最大の壁となることが多いのです。
まず、「駐在員」として日本から社員を派遣する場合を考えてみましょう。海外での新しい環境、言葉、文化に適応し、現地のビジネスを推進できる能力、そして本社との連携を円滑に行えるコミュニケーション能力を持った人材は、中小企業の中では限られていることが一般的です。
- 社内適任者の不足: 中小企業では、特定の業務に精通した人材はいても、急な海外勤務に対応できる語学力や、未知の環境に飛び込むタフさ、自律性を兼ね備えた人材は稀有な存在かもしれません。「あの人に任せたいが、国内のポストを外すと事業が回らない」といったジレンマも生じやすいでしょう。
- 育成の時間とコスト: グローバル人材を育成するには、時間とコストがかかります。語学研修、異文化研修、海外ビジネス実務研修など、体系的なプログラムを組む余裕がない中小企業も多いでしょう。OJT任せになり、結局は個人の能力や適応力頼みになってしまうケースも見られます。
- 候補者のモチベーション: 長期にわたる海外勤務は、個人のキャリアやライフプランに大きな影響を与えます。家族帯同の問題、子供の教育、配偶者のキャリア中断など、乗り越えるべき個人的なハードルも多く、候補者から希望者が出ない、あるいは打診しても断られるということも起こり得ます。
次に、「現地社員」の採用です。現地の言語や文化、商慣習に精通した現地社員は、海外事業成功に不可欠な存在です。しかし、ここにも多くの課題があります。
- 採用チャネルの不足: 現地の優秀な人材にリーチするための効果的な採用チャネルを持っていない場合があります。現地の有力な求人サイトやヘッドハンター、あるいは人脈がないと、応募が集まらなかったり、スクリーニングの質が担保できなかったりします。
- 適切な人材の見極め: 履歴書や面接だけでは、その人物が本当に自社の文化に合うのか、信頼できるのかを見極めるのは困難です。日本本社から面接官を派遣するにもコストがかかりますし、現地の採用担当者に任せきりにすると、思わぬミスマッチが生じるリスクも高まります。
- 給与水準と待遇: 進出する国・地域によっては、優秀な人材の給与水準が日本と比べて高かったり、独自の福利厚生や退職金制度が求められたりします。現地の相場を理解せずに日本の基準で採用しようとすると、優秀な人材は集まりません。
【自社で考えてみましょう】 「もし明日、海外拠点の責任者が必要になったら、社内に候補者はいますか?」「現地の主要ポストを任せられる人材を、どうやって見つけ、採用できますか?」― この問いに即答できないとすれば、それは貴社が人材確保の壁に直面しているサインかもしれません。
2-2. 異文化マネジメントの壁:現地社員とのコミュニケーションと評価制度
海外事業が軌道に乗ってくると、次に直面するのが「異文化マネジメント」の課題です。日本から派遣された駐在員やリーダーが、現地の多様な文化を持つ社員をどのように率いていくのかは、事業のパフォーマンスに直結します。
- コミュニケーションスタイルの違い: 日本では当たり前の「報連相(報告・連絡・相談)」が通用しない、指示待ちの姿勢が強い、あるいは逆に自己主張が強すぎるなど、国や地域によってコミュニケーションスタイルは大きく異なります。日本的な「行間を読む」「空気を読む」といった文化は、異文化環境では誤解を生む原因となりがちです。率直なフィードバックが美徳とされる文化もあれば、和を重んじる文化もあります。
- 価値観や働くモチベーションの違い: 給与や昇進への関心が高い人もいれば、ワークライフバランスを重視する人、社会貢献意欲が高い人など、働くことへの価値観は様々です。日本の従業員と同じモチベーションの源泉でマネジメントしようとすると、期待通りの結果が得られないことがあります。
- 日本本社からの管理と現地の実情の乖離: 日本本社が日本の基準やルールをそのまま現地に適用しようとすると、現地社員の反発を招いたり、非効率を生んだりします。例えば、日本の評価制度をそのまま導入しても、現地の働き方や文化に合わず、公平性が感じられず、社員の士気が低下することがあります。成果を重視する文化なのか、プロセスを重視する文化なのかによって、評価の考え方も変える必要があります。
- ハラスメント・差別リスク: 日本では問題とされない言動が、現地ではハラスメントや差別と見なされる可能性があります。無意識のうちに現地の文化や価値観を否定したり、不適切な言動をとったりすることで、大きなトラブルに発展するリスクも潜んでいます。
【事例から学ぶ示唆】 大手企業では、異文化理解研修は必須のプログラムとなっています。しかし、中小企業ではそこまで手が回らないことが多いかもしれません。例えば、日本の人事部などでも紹介されていますが、異文化理解のフレームワーク(例:ホフステードの6次元モデルなど)を学ぶだけでも、相手の行動の背景にある文化的な違いを理解する一助となります。また、WorkdayやSAP SuccessFactorsのような先進的なHCM(Human Capital Management)システムは、グローバルな人事データの一元管理や、各国の法規制に対応した柔軟な人事制度設計、パフォーマンス管理機能を備えています。中小企業がすぐにシステムを導入するのは難しくても、これらのシステムが実現しようとしている「グローバルな視点での人材管理」「現地の実情に合わせた柔軟な制度設計」という思想は、自社のマネジメントや制度を考える上で大いに参考になります。例えば、画一的な評価制度ではなく、現地リーダーと共に現地の状況に合わせた評価基準を共同で策定する、といった取り組みは中小企業でも可能です。
2-3. 複雑な海外の「労務管理」と「法規制」:どこまで把握すべきか
海外で従業員を雇用するということは、その国の「労働法」や「社会保険」「税務」など、複雑な法規制を遵守する責任が生じるということです。これは、日本の人事・労務担当者が最も頭を悩ませる課題の一つです。
- 法規制の多様性: 労働時間、休暇、解雇、社会保険、最低賃金など、基本的な労働条件に関する規制は国によって全く異なります。日本よりも労働者の権利が強く保護されている国もあれば、解雇規制が非常に厳しい国もあります。一つの国だけでも把握が大変なのに、複数の国に進出すれば、その複雑さは倍増します。
- 法改正への追随: 海外の法規制は頻繁に改正されることがあります。常に最新の情報を入手し、適切に対応していく必要がありますが、情報収集自体が困難な場合があります。
- 就業規則の整備: 現地の法規制に準拠した就業規則や雇用契約書を作成・整備する必要があります。日本の就業規則をそのまま翻訳しただけでは、現地の法に抵触する可能性があります。
- 社会保険・税務手続き: 現地での社会保険への加入、税金の源泉徴収、納付といった手続きは、現地の制度に則って正確に行わなければなりません。手続きを怠ると、罰金などのペナルティを課される可能性があります。
【自社で考えてみましょう】 「もし海外拠点の従業員から、残業代の支払いや解雇に関する訴えがあったら、法的に正しく対応できますか?」「現地の社会保険料の計算方法を正確に理解していますか?」― 現地の法規制に関する疑問や不安がある場合、それは労務管理のリスクに直面している可能性があります。
専門家であるSHRM(米国人材マネジメント協会)などが発信する情報からも、グローバル人事において現地の法規制遵守が最重要課題の一つであることが常に強調されています。自社の担当者だけで全てを把握しようとせず、現地の弁護士や労務コンサルタントといった専門家と連携することが不可欠です。どこまで自社で担当し、どこから専門家に依頼するかを明確に線引きする判断も重要になります。
2-4. 駐在員のメンタルヘルスと健康管理:見落としがちな重要な課題
海外、特に文化や生活習慣が大きく異なる地域での勤務は、駐在員にとって大きなストレス要因となります。仕事上のプレッシャーに加え、言葉の壁、食生活の変化、気候の違い、社会インフラへの不安、そして家族の適応問題など、様々な要因が複合的に作用し、心身の健康を損なうリスクが高まります。
- 孤立感と相談相手の不足: 日本本社との距離が離れることで、気軽に相談できる相手がいない、自分の抱える悩みを共有できないといった孤立感を深めやすい環境です。特に単身赴任の場合、その傾向は顕著になります。
- 文化・生活習慣への適応ストレス: 異文化に適応しようとするエネルギーは想像以上に消耗します。買い物一つ、役所での手続き一つにも苦労するかもしれません。日本のように簡単に医療機関にかかれない、衛生状態に不安があるといった物理的な問題もストレスになります。
- 家族帯同者の問題: 帯同家族、特に配偶者や子供の適応も大きな課題です。言葉の壁、現地の学校への順応、友人関係の構築など、家族が異文化に適応できず、帯同が困難になるケースも少なくありません。駐在員本人は会社からサポートを受けられても、家族へのサポートが手薄になりがちです。
- 本社人事・産業保健部門のサポート体制: 遠隔地にいる駐在員に対し、本社の人事や産業保健スタッフがどのように健康管理やメンタルヘルスサポートを行えるのか、体制が整っていない中小企業が多いのではないでしょうか。定期的な連絡、オンライン面談の実施、現地の医療機関情報の提供、緊急時の対応フローなど、具体的に検討すべき事項は多岐にわたります。
【産業医・保健師の皆様へ】 駐在員の健康管理は、単なる健康診断だけでなく、赴任前後の体調チェック、ストレスチェックの実施(現地の受検環境考慮)、予防接種の推奨、現地の感染症情報や信頼できる医療機関リストの提供など、専門的な知識と対応が必要です。特にメンタルヘルスについては、異文化ストレスに起因する不眠や抑うつ症状などが見られることもあります。帰国後のメンタルヘルス不調も少なくありません。日本国内のEAP(従業員支援プログラム)やカウンセリングサービスが海外から利用可能か、あるいは現地のEAPサービスと連携できるかなどを検討することも重要です。厚生労働省から海外勤務者の健康管理に関するガイドラインなども出ており、これらを参考に自社の体制構築を検討する価値は十分にあります。
2-5. 帰国後のキャリアパス:駐在員が抱える不安への対応
数年間の海外勤務を終え、日本に帰任した駐在員が直面する課題も、人事として見落とせない重要な点です。
- 経験の社内での不活用: 海外で培った経験や知識、ネットワークが、帰国後の国内業務で十分に活かされないというケースは少なくありません。日本特有のビジネス慣習や組織文化に再度順応するのに苦労し、いわゆる「浦島太郎状態」になることもあります。
- キャリアパスの不明確さ: 赴任前に帰国後のポストが明確になっていない場合、駐在員は自身の将来に不安を抱えやすくなります。海外での頑張りが、国内での昇進やキャリアアップに繋がるのかが見えないと、モチベーションの低下や不満に繋がります。
- 待遇面の課題: 駐在員として海外赴任手当などを受けていた従業員が、帰国後に待遇が大きく下がることへの不満。また、同期が国内でキャリアを積んでいる中で、自身の立ち位置を見失うといった心理的な課題も生じます。
- 離職リスク: 海外で得た知見や、グローバルな視野は、他の企業から見れば非常に魅力的な人材です。社内で自身の経験が正当に評価されず、活躍の場がないと感じた場合、より自分の能力を発揮できる環境を求めて転職してしまうリスクが高まります。これは、コストと時間をかけて育成したグローバル人材の流出を意味します。
【自社で考えてみましょう】 「海外から帰任した社員の経験を、自社でどのように活かせていますか?」「帰任後のキャリアについて、社員は安心感を持っていますか?」― せっかくの海外経験が、本人にとっても会社にとってもプラスになっていないとすれば、それはキャリアパスの課題に直面していると言えるでしょう。
大手企業では、駐在員向けに帰国後のキャリア面談を実施したり、海外事業部やグローバル戦略を担う部署への配属を優先したりするなどの取り組みが見られます。中小企業でも、赴任前からのキャリアプランに関する対話、帰国後の面談での丁寧なヒアリング、そして海外経験を活かせる新たなポストや役割を検討するなど、一人ひとりの駐在員と向き合うことが重要です。
まとめ:「人」の課題は、海外事業の根幹を揺るがす
ここまで見てきたように、中小企業の海外事業展開における「人材」に関わる課題は、採用から育成、マネジメント、労務、健康管理、そして帰国後のキャリアに至るまで、非常に広範かつ根深いものです。
これらの課題は、単に人事部の問題に留まらず、現地の事業運営の効率低下、従業員のモチベーション低下、コンプライアンス違反による事業停止リスク、そして優秀な人材の流出といった形で、海外事業の成功、ひいては企業全体の成長に深刻な影響を及ぼす可能性があります。
逆に言えば、これらの「人」に関わる課題に正面から向き合い、適切な対策を講じることができれば、中小企業でも海外事業を成功させる可能性は格段に高まります。限られたリソースの中でも、知恵と工夫で「人材」の壁を乗り越えることは十分に可能です。
では、これらの多岐にわたる「人」の課題、そして前回のセッションで触れた市場や法規制などの課題に対し、貴社は具体的にどのような対策を講じ、どのように実践に移していけば良いのでしょうか?
続くセッションでは、人材以外の市場・法規制・文化・リスクといった課題にも触れ、さらにその後のセッションでは、これらの海外事業の多岐にわたる課題に対して、貴社が具体的に取り組むべき実践的なステップを詳細に解説していきます。人事・労務・産業保健の視点を盛り込みながら、具体的な行動計画に落とし込むヒントが満載です。