13-3. 人材以外にも立ちはだかる壁:市場・法規制・文化・リスクの課題

前回のセッションでは、海外事業展開における「人材」に関する課題、すなわちグローバル人材の採用・育成、異文化マネジメント、複雑な労務管理、駐在員の健康管理、そして帰国後のキャリアパスといった、多岐にわたる「人」の壁について深く掘り下げました。人事・労務、そして産業保健に関わる皆様にとっては、特に身近で、かつ頭の痛い問題だと感じられたのではないでしょうか。

しかし、海外事業を取り巻く課題は、「人」に関することだけではありません。進出先の「市場」、遵守すべき「法規制」、異なる「文化や商慣習」、そして予期せぬ「リスク」といった要素もまた、貴社の海外事業の成否を大きく左右する「壁」となります。

そして厄介なことに、これらの課題は独立しているわけではなく、互いに複雑に絡み合っています。市場理解が不十分であれば、どのような人材が必要かも見えてきませんし、現地の法規制を知らなければ、適切な労務管理もできません。文化の違いを無視すれば、せっかく採用した現地社員との関係が悪化し、事業リスクを高めることにもつながります。

このセッションでは、人材以外のこれらの重要な「壁」に焦点を当て、中小企業が特に注意すべき点や、見落としがちな落とし穴について解説していきます。あなたの会社の海外事業計画に、これらの視点がどれだけ含まれているか、確認しながら読み進めてみてください。

3-1. 現地のリアルな市場理解と、自社製品・サービスの適合性

「日本で成功したんだから、海外でもきっと売れるだろう」。このような期待を持って海外に進出する中小企業は少なくありません。しかし、海外市場は日本の市場とは全く異なります。この認識の甘さが、事業の頓挫につながる最初の原因となることが多々あります。

  • 競合環境の違い: 日本国内では独自のニッチ市場を開拓できていたとしても、海外では強力なローカル企業や、既に進出している他の外国企業が同じ市場で激しい競争を繰り広げている場合があります。価格競争に巻き込まれたり、既存プレイヤーの強固な顧客基盤に太刀打ちできなかったりします。
  • 顧客ニーズの違い: 現地の消費者の嗜好、購買力、ライフスタイル、さらには気候や住宅環境など、様々な要因によって製品やサービスに対するニーズは異なります。日本の高品質・高機能な製品が、必ずしも全ての市場で求められるわけではありません。シンプルさや価格が重視される市場もあれば、特定のデザインや機能が必須とされる場合もあります。
  • 流通チャネルと商慣習: 日本のような緻密な流通網が整備されていない国もあれば、特定の卸売業者や小売チェーンが市場を支配している場合もあります。また、支払いサイト、返品ルール、値引き交渉の度合いなど、商慣習も国によって大きく異なります。日本のビジネス慣習をそのまま持ち込もうとすると、取引自体が成立しないこともあります。
  • 規制・規格への適合: 進出先の国独自の安全基準、環境規制、電気製品の電圧・プラグ形状、食品の成分表示基準など、様々な規制や規格が存在します。これらに適合するように製品を改良(ローカライズ)する必要が生じますが、これにはコストと時間がかかります。ローカライズを怠ると、そもそも市場で販売することすらできません。

【事例から学ぶ示唆】 ある日本の食品メーカーがアジア某国に進出した際、日本で人気の味付けが現地では全く受け入れられず苦戦した事例があります。現地の食文化や嗜好に関するリサーチが不十分だったことが原因です。しかし、その後、現地の味覚に合わせた複数の味を開発し、ヒット商品を生み出しました。これは、単に製品を輸出するのではなく、「現地のリアルなニーズに合わせたローカライズ」がいかに重要かを示しています。また、欧米企業、特にITサービスなどでは、多言語対応はもちろんのこと、各国の商習慣や法規制に合わせたサービス仕様の変更、UI/UXのローカライズを徹底しています。これは、単なる翻訳ではなく、文化的な背景を踏まえたきめ細やかな対応が、顧客獲得とビジネス拡大につながるという考え方に基づいています。

3-2. 予期せぬリスク(政治、経済、災害)への備えは十分か?

海外事業は、国内事業に比べて予期せぬリスクにさらされる可能性が高くなります。カントリーリスクと呼ばれるこれらのリスクは、事業計画を根底から覆すほどのインパクトを持つことがあります。

  • 政情不安と政策変更: 進出先の国で政権交代や社会情勢の不安定化が起こり、急な法規制の変更、外資規制の強化、あるいは国有化といった政策変更が行われるリスクがあります。事業許可の取り消しや資産の凍結といった事態も起こり得ます。
  • 経済変動と為替リスク: 急激なインフレーションやデフレーション、通貨の暴落は、原材料費の高騰や売上金額の目減り、さらには資金繰りの悪化を招きます。為替レートの変動は、輸出入を行う企業にとって常に大きなリスクとなります。
  • 自然災害とパンデミック: 地震、洪水、台風といった自然災害が発生した場合、現地の拠点やサプライチェーンに甚大な被害が出る可能性があります。近年経験したパンデミックも、人の移動制限、物流の混乱、操業停止など、海外事業に壊滅的な影響を与えることを示しました。
  • サプライチェーンの脆弱性: 特定の国からの部品供給に依存している場合、その国で政情不安や自然災害が発生すると、生産ラインが停止するといったリスクがあります。
  • 情報セキュリティリスク: 海外拠点における情報漏洩やサイバー攻撃のリスクも高まります。各国のデータ保護法制(例: EUのGDPRなど)への対応も必要です。

【自社で考えてみましょう】 「進出を検討している国で、過去にどのような政治・経済リスクが発生していますか?」「予期せぬ災害や感染症が発生した場合、現地拠点の従業員の安全をどう確保し、事業をどう継続・復旧させますか?」「為替レートが〇〇円変動したら、利益にどのくらい影響が出ますか?」― これらの問いに答えられない場合、貴社はリスクへの備えが不十分である可能性が高いです。

企業のリスク管理は、大企業だけでなく中小企業にも不可欠です。経済産業省などがリスクマネジメントに関する情報やツールを提供しています。全てのNotDefinedStoryを想定するのは不可能ですが、考えられる主要なリスクを洗い出し、発生確率と影響度を評価し、事前に対策(保険加入、リスク分散、BCP策定など)を講じることが、被害を最小限に抑えるためには必須となります。

3-3. 文化・商慣習の違いを乗り越える営業・マーケティング戦略

前回のセッションで異文化マネジメントの難しさに触れましたが、文化の違いは社内の人間関係だけでなく、外部、特に顧客や取引先との関係構築にも大きく影響します。

  • コミュニケーションスタイルと交渉術: 商談の場で、相手が率直なコミュニケーションを好むのか、遠回しな表現を使うのか。意思決定に時間がかかる文化なのか、その場での即断即決が求められるのか。こうした違いを理解せず、日本のやり方をそのまま持ち込むと、相手に不快感を与えたり、ビジネスチャンスを逃したりします。契約書を細部まで確認する文化なのか、それとも相手との信頼関係をより重視する文化なのかによっても、ビジネスの進め方は変わってきます。
  • マーケティング表現: 日本で効果的なキャッチコピーや広告表現が、海外では意味が通じなかったり、不適切・不快な表現と捉えられたりすることがあります。使用する色、写真、タレントなども、現地の文化や宗教、価値観に配慮する必要があります。SNSを活用する場合も、その国でどのプラットフォームが主流か、どのようなコンテンツが人気かなど、現地の状況を理解する必要があります。
  • ブランディングと認知度向上: 海外市場でのブランド認知度を高めるためには、現地の消費者やメディアに響くような効果的なプロモーションが必要です。日本の企業名やブランド名が現地で覚えにくい、あるいは意図しない意味に取られる可能性も考慮しなければなりません。
  • 価格設定とプロモーション: 現地の所得水準、競合製品の価格、消費者の価格感応度に合わせて、適切な価格設定を行う必要があります。また、セールや割引、ポイント制度など、どのようなプロモーションが現地の消費者に響くかも文化や商習慣によって異なります。

【事例から学ぶ示唆】 ある日本の化粧品メーカーが、ヨーロッパのある国で日本の美的感覚に基づいた広告を展開したところ、現地の消費者にはあまり響かなかったという事例があります。その後、現地のモデルを起用し、現地のライフスタイルに寄り添ったプロモーションに切り替えたことで、売上を伸ばすことができました。これは、製品だけでなく、その見せ方や伝え方も現地に合わせる「マーケティングのローカライズ」の重要性を示しています。また、現地の有力なインフルエンサーやKOL(Key Opinion Leader)を活用することも、特に若年層やデジタルに強い消費者へのリーチに効果的な手段となりつつあります。

3-4. 知らなかったでは済まされない、海外の税務とコンプライアンス

海外で事業活動を行う上で、避けて通れないのが現地の税務とコンプライアンス(法令遵守)です。これらを軽視すると、事業の遅延、追加コスト発生、罰金、さらには事業停止といった重大な結果を招く可能性があります。

  • 税務制度の複雑さ: 法人税、所得税、消費税(VAT)、源泉所得税、移転価格税制など、税の種類は多岐にわたり、その計算方法や申告手続きは国によって大きく異なります。特に、グループ会社間での取引価格設定に関する移転価格税制は、中小企業でも無関係ではなく、事前の検討と適切な対応が求められます。
  • 貿易関連規制: 製品の輸出入には、関税、輸入割当、技術基準、安全基準、原産地証明など、様々な規制が関わってきます。これらの手続きを怠ったり、誤った方法で行ったりすると、通関の遅延や貨物の没収、罰金といった問題が発生します。
  • 汚職・贈賄規制: 世界的に汚職・贈賄に対する規制は厳格化しており、現地の公務員や取引先への不適切な贈答や便宜供与は、その国の法律だけでなく、米国のように自国の企業活動にも広く適用される法律(例: FCPA – Foreign Corrupt Practices Act)に違反する可能性があります。「郷に入っては郷に従え」ではなく、より厳しい基準でのコンプライアンスが求められます。
  • データプライバシー規制: EUのGDPRを筆頭に、世界各国で個人情報保護に関する規制が強化されています。海外拠点で顧客や従業員の情報を扱う場合、これらの規制を遵守しなければなりません。日本の個人情報保護法とは異なる点が多く、専門的な知識が必要です。
  • 知的財産権の保護: 自社のブランド名、ロゴ、技術、デザインなどが、海外で模倣されたり、無断で使用されたりするリスクがあります。進出前に商標権や特許権を適切に出願・登録しておくことが、権利侵害を防ぐために不可欠です。

【自社で考えてみましょう】 「進出先の国で、売上にかかる税金(消費税など)の仕組みを理解していますか?」「現地で取引先から贈答品を渡された場合、どう対応すべきかルールはありますか?」「現地で取得した顧客情報を、どのように扱えば法的に問題ありませんか?」― これらの問いに即答できない場合、貴社はコンプライアンスリスクにさらされている可能性があります。

中小企業の場合、これらの複雑な規制に対応できる専門人材が社内にいないことがほとんどです。経済産業省やJETROなどの情報も有用ですが、最終的には現地の税理士、会計士、弁護士といった専門家と連携することが不可欠です。どの分野のリスクが高いかを見極め、優先順位をつけて専門家のサポートを得る体制を構築することが重要になります。

まとめ:多角的視点で「壁」を捉え、備える

このセッションでは、海外事業における「人材」以外の主要な課題として、市場、法規制、文化、リスクといった「壁」について掘り下げました。これらの課題は、それぞれが独立して存在するのではなく、互いに影響し合いながら、海外事業の難易度を高めています。

中小企業にとって、限られたリソースの中でこれらの多岐にわたる課題全てに完璧に対応することは難しいかもしれません。しかし、これらの「壁」が存在することを認識し、どのようなリスクが潜んでいるのかを具体的に理解することは、無謀な進出を防ぎ、成功の可能性を高めるために不可欠です。

では、これらの「人」に関わる課題、「人材以外」の課題といった、海外事業の多岐にわたる「壁」に対し、中小企業はどのように具体的に備え、そして実践に移していけば良いのでしょうか?

続くセッションでは、これまで見てきた海外事業の「壁」を、貴社がどのように乗り越え、成功へと導くことができるのか。具体的な実践的ステップと、今すぐ検討すべきアクションプランを詳細に解説します。事例や最新のトレンドも踏まえ、人事・労務・産業保健の視点を盛り込みながら、貴社の海外事業展開のロードマップを描くヒントが満載です。

海外事業成功への道のりは険しいですが、適切な準備と実行によって、その「壁」を乗り越えることは十分に可能です。まずは、自社がどのような対策を講じうるのか、次のセッションで具体的に考えていきましょう。