これまでのセッションで、私たちは中小企業が海外事業を展開する際に直面する様々な「壁」について詳しく見てきました。限られたリソースの中で立ち向かわなければならない、人材確保・育成・管理の難しさ、そして市場、法規制、文化、カントリーリスクといった、予期せぬ落とし穴の存在を認識されたことと思います。
課題を明確にすることは、もちろん重要です。しかし、課題を羅列するだけで終わっては意味がありません。大切なのは、これらの「壁」を乗り越え、海外事業を成功へと導くための具体的な「行動」です。
では、貴社のような中小企業が、これらの多岐にわたる課題に対し、どのように備え、そして実践に移していけば良いのでしょうか?このセッションでは、海外事業の成功確率を上げるための、具体的かつ現実的な実践的ステップを解説します。社長様、人事部の皆様、そして産業医・保健師の皆様が、それぞれの立場で明日から何に取り組み始めるべきか、そのヒントがきっと見つかるはずです。
4-1. まずはここから!徹底的な事前調査と事業計画の重要性
海外事業成功の最初のステップは、何よりも「知ること」です。前回のセッションで触れたように、安易な思いつきや情報不足による失敗は少なくありません。徹底的な事前調査こそが、無駄な投資を防ぎ、リスクを低減するための最も重要な土台となります。
【社長・人事担当者の方へ】 「うちの製品なら海外でも通用するだろう」「あの国が今、熱いらしい」といった感覚的な話だけでなく、具体的なデータに基づいた客観的な判断が必要です。
どのような調査が必要か?
- 市場調査: 進出を検討している国の市場規模、成長性、ターゲット顧客のニーズ、購買力、消費行動、流通チャネルなどを詳細に調べます。自社製品やサービスが現地のニーズに本当に合致するか、ローカライズの必要性はあるかなどを検討します。
- 競合分析: 現地のローカル企業や、既に進出している他国の企業など、競合は誰か、その強み・弱み、価格戦略、販売チャネルなどを分析します。
- 法規制・税制調査: 外国企業の活動に関する規制、労働法、税制、貿易規制(関税、輸入制限など)、安全基準、環境規制などを専門家に確認します。特に労務関連の法規制は、現地での雇用形態や就業規則のベースとなるため、人事部は早い段階から関与すべきです。
- 文化・商慣習調査: 現地のビジネス文化、商慣習、コミュニケーションスタイル、国民性などを理解します。書籍やインターネットだけでなく、実際に現地に足を運び、肌で感じることが重要です。
- 人材市場調査: 現地の賃金水準、採用慣行、労働者の質、労働組合の状況などを調べます。これは、現地社員の採用計画や人件費計画に不可欠です。
- リスク調査: 政情不安、経済変動、自然災害、治安、感染症リスクなど、カントリーリスクに関する情報を収集します。
どうやって調査を進めるか?
- デスクリサーチ: 公開情報(JETRO、大使館、省庁のレポート、海外の市場調査レポートなど)を活用します。
- 現地視察・ヒアリング: 実際に現地に赴き、市場の雰囲気を感じたり、現地の企業や消費者、専門家(弁護士、会計士、コンサルタント)から直接話を聞いたりします。
- 外部専門家の活用: 海外ビジネスコンサルタント、市場調査会社、現地の弁護士・会計事務所などに調査を依頼します。限られたリソースの中小企業にとって、専門家の知見は非常に貴重です。
- 公的機関の活用: JETROは海外進出を支援する様々なサービス(情報提供、専門家派遣、市場調査支援など)を提供しています。中小企業庁や各自治体も海外展開支援策を持っていますので、積極的に活用しましょう。
徹底した調査に基づき、具体的な事業計画を策定します。目標、戦略、人員計画、財務計画、リスク対策、そして最悪の場合の撤退基準まで、可能な限り具体的に落とし込みます。この計画は一度作って終わりではなく、環境の変化に応じて柔軟に見直し、アップデートしていく必要があります。
4-2. 海外経験がなくても大丈夫!社内人材育成と外部リソース活用術
前回のセッションで、グローバル人材の確保が中小企業にとって大きな課題であることを指摘しました。しかし、全ての海外人材を外部から採用する必要はありません。社内の「育てたい」人材を海外ビジネスの担い手として育成すること、そして必要な機能を外部のリソースで補うことが、中小企業にとって現実的なアプローチです。
【社長・人事担当者の方へ】 「海外に行ける人がいない」と諦めるのではなく、「海外に行ける人を育てる」「外部の力を借りる」という発想転換が重要です。
社内人材育成のポイント
- 語学研修: オンライン英会話、TOEIC/TOEFL対策講座など、比較的低コストで受講できるプログラムも増えています。目標レベルを設定し、継続的な学習を促します。
- 異文化理解研修: 書籍やeラーニングでの基礎学習に加え、専門家による研修や、海外経験者との交流機会などを設けることで、異文化への適応力を高めます。日本の人事部などでも、異文化理解に関する記事やセミナー情報が提供されています。
- 海外トレーニー制度: 若手社員を短期間、海外拠点や取引先企業に派遣し、実務経験を積ませます。すぐに駐在員として派遣するのが難しくても、こうしたステップを踏むことで、候補者の適性を見極めたり、グローバルな視野を養ったりすることができます。
- 海外事業関連情報の共有: JETROのレポート、海外ビジネスに関する書籍、オンラインセミナーなどの情報を社内で共有し、社員全体の海外事業への関心や知識を高めます。
外部リソース活用のポイント
- 海外ビジネスコンサルタント: 市場調査、事業計画策定、進出形態の検討、リスク評価など、専門的な知識が必要な領域で活用します。中小企業の海外進出支援に特化したコンサルタントも存在します。
- 現地の専門家: 現地の弁護士、会計士、税理士、労務コンサルタントなどは、法規制や商慣習に精通しており、トラブル発生時の強力な味方となります。顧問契約を結ぶなどして、継続的に相談できる関係を構築することが理想です。
- 現地パートナー: 販売代理店、合弁事業のパートナーなど、現地のネットワークやノウハウを持つパートナーとの連携は、市場開拓や事業運営をスムーズに進める上で非常に有効です。パートナー選びは慎重に行い、契約内容を明確にすることが重要です。
- フリーランサー/ギグワーカー: 海外での単発の市場調査、翻訳、現地のオンラインマーケティング業務など、特定のタスクをフリーランサーやギグワーカーに依頼することで、必要な時に必要なリソースを柔軟に確保できます。
【事例から学ぶ示唆】 ある地方の中小メーカーは、海外経験者が全くいない状況から海外事業をスタートさせました。まずJETROの専門家派遣制度を活用して輸出に関する基礎知識を学び、その後、現地のパートナー企業と契約を結びました。社内では海外事業担当者を決め、語学研修と外部の海外ビジネスセミナーへの参加をサポート。現地の労務や法務は、提携先の会計事務所と弁護士に全て任せることで、本社側の負担を軽減しました。このように、社内人材育成と外部リソースを組み合わせることで、限られたリソースでも海外事業は実現可能です。
4-3. 変化に対応できる「グローバル人事制度」の設計・見直し
海外事業の拡大に伴い、日本の本社と同じ人事制度では対応できなくなる場面が必ず出てきます。現地の法規制遵守はもちろんのこと、多様なバックグラウンドを持つ人材のモチベーションを高め、フェアな評価を行うためには、「グローバル人事制度」の視点が不可欠です。
【社長・人事担当者の方へ】 人事制度は、単なるルールの集合体ではありません。海外拠点の組織文化や、現地社員のエンゲージメントに直接影響を与える重要な要素です。
検討すべき人事制度のポイント
- 評価制度: 現地のビジネス目標や個人の役割に合わせた、具体的で分かりやすい評価基準が必要です。日本のような年功序列やプロセス重視の評価が、成果主義が浸透している国で機能しないこともあります。半期に一度の目標設定と評価だけでなく、欧米企業で主流となっているような、日常的なフィードバックや1on1面談を通じたパフォーマンスマネジメントの考え方を取り入れることも有効です。これにより、期中での軌道修正や、従業員の成長支援が可能になります。
- 報酬制度: 現地の給与水準や福利厚生の相場を正確に把握し、競争力のある報酬体系を設定します。基本給だけでなく、インセンティブや手当、退職金なども現地の慣行に合わせて検討が必要です。駐在員給与についても、ハードシップ手当、子女教育手当、住宅手当など、現地の生活コストやリスクを考慮した設計が求められます。
- 異動・昇進制度: 海外勤務経験を、国内でのキャリアアップにどう繋げるかのパスを明確にします。海外拠点の主要ポストへの昇進基準や、本社への異動ルールなども定めておくことで、駐在員や現地社員のモチベーション維持に繋がります。
- 福利厚生: 現地の医療保険、年金制度への加入は必須ですが、それに加えて、住宅補助、通勤手当、社員食堂、レクリエーション費用など、現地の慣習や競合他社の水準を考慮した福利厚生を検討します。
【事例から学ぶ示唆】 先進的なグローバル企業では、WorkdayやSAP SuccessFactorsのようなHCMシステムを活用して、各国の法規制や文化に合わせた柔軟な人事制度を構築・運用しています。中小企業がすぐに大規模システムを導入するのは難しくても、これらのシステムが目指す「全従業員を対象とした一元的な人材データ管理」「現地のニーズに合わせた制度のローカライズ」「データに基づいた公正な評価」といった思想は、自社の制度を検討する上で非常に参考になります。例えば、現地の管理職や社員代表からヒアリングを行い、現場の実情に即した評価項目を共同で作成する、といった取り組みは中小企業でも可能です。また、SHRM(米国人材マネジメント協会)が発信するグローバル人事に関する最新情報やベストプラクティスも、自社の制度設計のヒントになります。
人事制度は一度作ったら終わりではありません。現地の状況や法改正に合わせて、定期的に見直し、改善していく柔軟性が求められます。
4-4. 現地責任者・駐在員が孤立しないためのサポート体制構築
前回のセッションで指摘した通り、海外勤務は駐在員にとって心身ともに大きな負担となります。彼らが安心して働き、パフォーマンスを発揮できる環境を整えることは、人事、そして産業保健に携わる皆様の重要な役割です。
【人事担当者・産業医・保健師の方へ】 物理的な距離があっても、本社からのサポートは不可欠です。「任せきり」は駐在員を孤立させ、事業リスクを高めます。
具体的なサポート策
- 本社からの定期的なコミュニケーション: 現地拠点責任者や駐在員と、オンライン会議ツールなどを活用して定期的に情報交換や進捗確認を行います。単なる報告だけでなく、彼らが抱える悩みや課題を聞き出すための非公式な対話も重要です。社長や役員が定期的に現地を訪問することも、現地社員のモチベーション向上と駐在員のサポートに繋がります。
- 相談窓口の設置: 本社の人事担当者を窓口とするだけでなく、必要に応じて、現地の日本人コンサルタント、あるいは言語の壁がない外部の相談サービス(EAPなど)を導入することも検討します。駐在員が誰に、何を相談すれば良いか迷わないように、相談先のリストと連絡方法を明確に周知します。
- メンタルヘルスケアと健康管理:
- 人事: 赴任・帰任前後の健康診断を徹底し、心身の状態を把握します。海外勤務者向けのEAP(従業員支援プログラム)を導入し、海外からでもオンラインでカウンセリングを受けられる体制を整えます。定期的なストレスチェックも推奨します。
- 産業医・保健師: 赴任・帰任面談を丁寧に行い、体調やメンタルヘルスの状態を確認します。現地の医療レベルや衛生状況、感染症リスクに関する情報を提供し、必要な予防接種を推奨します。現地の信頼できる医療機関リストを作成し、いつでも参照できるようにしておきます。緊急時の連絡フローを明確にしておきます。リモートでの健康相談や、産業医面談が必要な場合にオンラインで実施できる体制を検討します。
- 家族帯同者へのサポート: 帯同家族も異文化適応に苦労することが多いため、彼らへのサポートも重要です。現地の日本人コミュニティや学校情報、生活情報の提供、必要に応じて語学学習支援などを行います。帯同家族向けの情報交換会を企画したり、相談窓口を設けたりすることも有効です。
- 現地の日本人会・商工会との連携: 現地の日本人社会との繋がりは、駐在員や家族の情報収集や孤立防止に役立ちます。会社としてこれらの団体との連携をサポートします。
働き方改革の視点から見ると、海外勤務においても適切な労働時間管理や休暇取得の奨励は重要です。特に長時間労働が常態化しやすい海外拠点では、本社の産業保健スタッフが定期的に状況を把握し、必要に応じて是正を促すといった連携も求められます。
4-5. リスクマネジメント体制の強化と、有事の際の連携フロー
前回のセッションでリスクの多様性について触れました。これらのリスクを完全に排除することは不可能ですが、事前の備えと体制構築によって、被害を最小限に抑えることは可能です。
【社長・人事担当者の方へ】 リスクは常に存在するという前提に立ち、冷静に評価し、現実的な対策を講じることが重要です。
具体的なリスクマネジメントのステップ
- リスクアセスメント: 進出先の国や事業内容において、どのようなリスク(政治、経済、法務、環境、災害、治安、健康など)が存在するかを洗い出し、それぞれの発生可能性と影響度を評価します。人事部は、特に労務リスク、人的リスク(駐在員の健康、メンタルヘルス、現地社員の離職など)に関するリスクアセスメントを主導すべきです。
- 事業継続計画(BCP)の策定: 自然災害、政情不安、パンデミックなど、不測の事態が発生した場合に、事業をいかに継続・復旧させるかの計画(BCP)を策定します。重要業務の特定、代替手段の確保、連絡体制、役割分担などを具体的に定めます。
- 保険加入の見直し: 海外赴任者向けの傷害保険・疾病保険はもちろん、事業内容に応じた各種保険(賠償責任保険、財産保険など)への加入を検討します。現地の保険制度も確認し、必要に応じて日本の保険会社と連携して最適なプランを設計します。
- 為替リスクヘッジ: 為替予約など、中小企業でも可能な範囲で為替変動リスクへの対策を講じます。銀行や専門家に相談しましょう。
- コンプライアンス体制の構築: 現地の主要な法規制や自社で遵守すべきルールを明確にし、従業員への周知・研修を行います。特に汚職・贈賄規制や個人情報保護法制など、グローバルで厳格化が進む分野については、専門家の助言を得ながら体制を構築します。現地の弁護士や会計士と顧問契約を結び、常に最新情報を入手し、相談できる体制を整えます。
- 有事の際の連絡・連携フロー: 緊急事態発生時に、誰が誰に、どのような情報を、どのような手段で連絡するかといったフローを明確に定めます。本社と現地拠点、さらには外部の専門家(大使館、警察、医療機関、弁護士など)との連携体制を構築します。
【事例から学ぶ示唆】 近年のパンデミックや国際情勢の不安定化を経て、多くの企業がサプライチェーンの見直しや、BCPの重要性を改めて認識しました。ある中小企業は、特定の国からの部品供給がストップした経験から、複数の国に調達先を分散させる戦略に転換しました。また、別の企業は、現地の政情不安リスクに備え、定期的にリスク情報を収集・分析する体制を構築し、必要に応じて事業計画を修正しています。リスクマネジメントはコストではなく、将来的な損失を防ぐための「投資」であるという意識を持つことが重要です。
まとめ: 海外事業成功は、「計画」と「実行力」にかかっている
このセッションでは、海外事業の多岐にわたる課題を克服し、成功に導くための実践的なステップを具体的に解説しました。徹底した事前調査、社内人材育成と外部リソースの活用、グローバル人事制度の設計、駐在員サポート体制の構築、そしてリスクマネジメント体制の強化。これらは全て、海外事業を「なんとなく」進めるのではなく、しっかりと「計画」を立て、「実行」に移すための重要な要素です。
もちろん、全てを一度に完璧に行う必要はありません。限られたリソースの中小企業だからこそ、優先順位をつけ、できることから着実に実行していくことが重要です。まずは、自社の海外事業において、どの課題のリスクが高いか、そしてどのステップから取り組むのが最も効果的かを、社内で議論することから始めてみましょう。
次回の最終セッションでは、これまでの議論を踏まえ、「海外事業展開は『人』と『準備』にかかっている」というメッセージを改めてお伝えし、貴社が明日からできる具体的な行動を促すためのまとめと、自社の課題を洗い出すための最後の問いかけを行います。海外事業成功への道のりを、具体的なアクションプランとして捉えるヒントが満載です。
海外という新たな舞台での挑戦は、貴社に大きな成長をもたらす可能性を秘めています。その成功は、今日、あなたがこの情報に触れ、行動を起こすかどうかにかかっています。