これまでのセッションでは、中小企業における若手人材の早期離職がもたらす深刻な影響と、それを食い止めるための具体的な実践施策について掘り下げてきました。オンボーディングの強化、体系的な人材育成、納得度の高い評価とフィードバック、心理的安全性の高い組織づくり、そして柔軟な働き方と健康経営。これらの施策は、個別の課題解決として有効であると同時に、実は近年注目を集めている、ある重要な経営コンセプトと深く繋がっています。
それが、「人的資本経営」という考え方です。
人的資本経営とは何か? なぜ今、若手人材への投資が重要なのか?
「人的資本経営」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは端的に言えば、「人材を単なる経営上の『コスト(費用)』としてではなく、企業の価値創造の源泉である『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、企業の中長期的な成長や企業価値向上に繋げていこう」という経営のあり方です。
かつて、企業価値は土地や建物、設備といった「有形資産」や、お金である「財務資本」によって測られるのが一般的でした。しかし、現代のように変化が速く、イノベーションが競争力の源泉となる知識集約型の経済においては、社員一人ひとりの知識、スキル、経験、そして彼らが持つモチベーションや関係性といった「無形資産」、すなわち「人的資本」の重要性が飛躍的に高まっています。
なぜ今、人的資本経営がこれほど注目されているのでしょうか。その背景には、以下のような要因があります。
- グローバル競争の激化: 国境を越えた競争の中で、企業の独自の強みや差別化要因は、画期的な技術やビジネスモデルだけでなく、それを生み出し実行する「人」の力に依存するようになっています。
- テクノロジーの進化と価値観の変化: AIやDXの進展により、人が担うべき仕事の内容が変化しています。また、特に若い世代を中心に、仕事に対する価値観が多様化し、「ここで働く意味」「社会への貢献」などを重視する傾向が強まっています。
- 無形資産の重要性の高まり: ブランド力、顧客との関係性、そして人材力といった目に見えない無形資産が、企業の持続的な競争力の源泉として認識されるようになりました。
- 投資家からの要請(ESG投資): 近年、機関投資家は企業の財務情報だけでなく、ESG(環境・社会・ガバナンス)の観点も重視して投資判断を行うようになっています。人的資本への投資は、このESGの「S(社会)」の重要な要素であり、「人材を大切にする企業は持続的に成長する」という考え方が広がっています。欧米ではすでに、企業が人的資本に関する情報を積極的に開示することがスタンダードになりつつあり、日本でも大企業を中心に開示義務化が進んでいます。
こうした流れの中で、特に企業の「未来」を担う若手人材への投資は、人的資本経営の中核をなすものとして極めて重要視されています。
若手人材への投資を「コスト」と捉えることの弊害
これまで、企業の人事関連費用は、採用費、給与、研修費など、P/L(損益計算書)上で「販売費及び一般管理費」として計上される「コスト」として見られることが一般的でした。「コストはできるだけ抑えるべきもの」という意識から、人材採用や育成への投資が、真っ先に削減対象となりがちでした。
しかし、若手人材への投資をコストとだけ捉えることには、以下のような深刻な弊害があります。
- 短期的な視点に陥る: 目先のコスト削減を優先するあまり、将来の成長に必要な人材の確保や育成がおろそかになります。
- 人材の流出を招く: 成長機会や適正な評価、良好な人間関係といった、若手が求める要素への投資を怠ることで、優秀な人材ほど早期に他社へと流出してしまいます。
- 「採用→育成→離職」の負のスパイラル: 離職率が高いと、その穴を埋めるために再び採用・育成にコストがかかるという悪循環に陥り、いつまで経っても組織の成熟度が上がりません。
- 組織の硬直化: 新しい視点や価値観を持つ若手が入ってこない、あるいはすぐに辞めてしまうことで、組織の新陳代謝が滞り、変化への対応力が失われます。
つまり、若手人材への投資をコストとして削減することは、短期的な財務数字にはプラスに見えるかもしれませんが、長期的に見れば企業の成長力や競争力を著しく低下させる自殺行為に等しいのです。
若手人材への投資が企業価値向上に繋がる理由
では、若手人材への投資を「コスト」ではなく「未来への資産」と捉え直すことで、具体的にどのようなメリットがあり、企業価値向上に繋がるのでしょうか。
- 生産性の向上とイノベーション創出: 適切な育成や権限委譲によって、若手社員は早期に能力を発揮し、生産性を高めます。また、既存の枠にとらわれない彼らの新しいアイデアや視点は、技術革新やビジネスモデルの変革、業務効率化といったイノベーションに繋がる可能性を秘めています。エンゲージメントが高い若手社員は、単に与えられた業務をこなすだけでなく、積極的に改善提案を行ったり、新しいツールや技術を導入したりと、組織にポジティブな変化をもたらします。
- 組織力の強化と持続性の確保: 若手社員は、将来の管理職やリーダー候補です。計画的な育成を通じて、組織の中核を担う人材を社内で育てることができます。これは、外部から常に高額な費用をかけて管理職を採用するよりも、組織文化を理解し、長期的に貢献できる人材を確保する上で遥かに有効です。また、多様なバックグラウンドを持つ若手社員が増えることは、組織のダイバーシティを高め、変化に強い柔軟な組織を作り上げます。
- 採用力と企業ブランドの向上: 「若手人材を大切にし、育成に力を入れている会社」「若手が活き活きと働いている会社」という評判は、新たな優秀な人材を引き寄せる強力な磁力となります。採用市場において、賃金だけでなく働きがいや成長機会を重視する若手にとって、「人的資本への投資」を明確に打ち出している企業は魅力的に映ります。これは、採用コストの削減にも繋がり、良い人材が集まるという好循環を生み出します。
- リスクの低減: 離職率が低下することで、採用・育成にかかるコストの損失を防ぐことができます。また、特定の社員に業務が集中するといった属人化のリスクを減らし、組織全体の業務遂行能力を高めることができます。さらに、ハラスメントの防止や心身の健康サポートといった健康経営の実践は、労務リスクの低減にも繋がります。
- 企業価値の向上と投資家からの評価: 上記のような取り組みは、企業の財務諸表にはすぐに現れないかもしれませんが、中長期的な収益力や持続可能性を高めます。近年、多くの機関投資家は、企業の財務情報だけでなく、人的資本への投資状況や従業員エンゲージメントといった非財務情報も重視して投資判断を行うようになっており、積極的な人的資本経営は企業価値の向上に直結すると考えられています。
ユニリーバやセールスフォース、伊藤忠商事といった企業は、人的資本への積極的な投資や情報開示を行うことで、企業価値向上を目指しています。中小企業においても、上場企業ほど厳密な情報開示は求められなくとも、「人材は宝である」という考え方を経営の中心に置き、若手への投資を明確な戦略として位置づけることは、今後の成長に不可欠です。
経営層のコミットメントと人事部門が果たすべき役割
若手人材の定着と育成を「人的資本への投資」として成功させるためには、何よりも経営層の強いコミットメントが不可欠です。人事部門や現場の努力だけでは限界があります。
4-2-1. 経営層が果たすべき役割
- 意識改革とメッセージ発信: 「人材はコストではなく資産である」という考え方を経営の根幹に据え、このメッセージを社員全体に向けて明確に発信します。経営層自身が、社員との対話の場に積極的に参加するなど、その姿勢を示すことが重要です。
- 人材戦略と経営戦略の統合: 人材戦略を、単なる人事部の業務として切り離すのではなく、事業戦略や経営計画と一体のものとして捉えます。どのような人材が、いつまでに、どれくらい必要なのか、そのためにどのような投資が必要なのかを、経営会議などで議論し、決定します。
- 人材への投資判断: 採用、育成、人事制度改定などに必要な予算を、将来への投資として積極的に投じます。コスト削減の対象とするのではなく、投資対効果を考慮した上で、必要なリソースを確保します。
- 人事部門への権限委譲とサポート: 人事部門が戦略的な役割を担えるよう、必要な権限と予算を与え、経営層が積極的にサポートします。人事部門を単なる管理部門ではなく、企業の成長を牽引する戦略的なパートナーとして位置づけます。
- 自身の働きがいを示す: 経営層自身が仕事に情熱を持ち、働くことを楽しむ姿勢を示すことは、社員、特に若手にとって大きなモチベーションとなります。
4-2-2. 人事部門が果たすべき戦略的役割
人事部門は、経営層のパートナーとして、人的資本経営を推進する中心的な役割を担います。
- 人材戦略の策定: 経営戦略に基づき、どのような人材をどのように採用・育成し、配置するのか、具体的な人材戦略を策定します。
- 現状把握と課題分析: 若手社員のエンゲージメントや離職予備軍を特定するため、データ(エンゲージメントサーベイ、退職者データなど)を活用して現状を把握し、課題を分析します。
- 施策の企画・実行: セッション3で紹介したような具体的な施策を企画・実行します。中小企業の実情に合わせて、外部の専門家やサービスを活用することも検討します。
- 効果測定と改善: 実施した施策の効果を定量・定性的に測定し、継続的な改善に繋げます。
- 経営層への提言: 課題や施策の効果、必要な投資などについて、データや事例を基に経営層へ提言を行います。
- 社内外への情報発信: 社員に向けて、会社のビジョンや人材戦略、施策の目的などを分かりやすく発信します。将来的には、外部への人的資本に関する情報開示も視野に入れます。
中小企業においては、専任の人事担当者がいない、あるいは他の業務と兼務しているケースが多いでしょう。しかし、人的資本経営の重要性を理解し、まずはできる範囲で、戦略的な視点を持って人材に関する業務に取り組むことが重要です。経営者自身が人事の最重要責任者であるという意識を持つこと、外部のコンサルタントや専門家、あるいは中小企業支援機関などを積極的に活用することも有効な手段です。
若手人材への投資は、短期的なコストではなく、間違いなく企業の未来を創るための「資産」です。この資産の価値を最大限に引き出すことが、人的資本経営の本質であり、企業の持続的な成長と企業価値向上に繋がります。
これまでのセッションで、若手が離職する理由、そして具体的な定着施策を見てきました。今回のセッションで、それらの取り組みが「なぜこれほど重要なのか」という戦略的な位置づけをご理解いただけたかと思います。
しかし、これらの施策を実行し、効果を最大化するためには、まず「自社の若手社員が何を考え、何に課題を感じているのか」を正確に把握することが不可欠です。闇雲に施策を打っても、効果は限定的になってしまいます。
次のセッションでは、若手社員の「ホンネ」を知るための具体的な方法、「課題の見える化」について詳しく解説します。貴社の現状を正しく理解し、真に効果的な人的資本投資を行うための第一歩となりますので、ぜひ続けてご覧ください。